嘘ばかりついて生きているのは、真実なんてどうでもいいから。
あたしは自分の部屋のベッドに寝そべって、ケータイをいじりながら壁の向こうから聞こえる「声」にじっと耳をそばだてていた。
来期の予算案について、防衛都市千葉の各部署は大モメだった。どこもみんな、予算は欲しい。誰だってお金は貰えるなら貰えるだけ欲しい。馬鹿でもわかるし、そんなこと。
お兄ぃは隣の部屋に女を連れ込んでいる。仕事絡みだってわかっていても、別に恋人でも何でもないってわかっていても、面白くない。壁を隔てて微かに聞こえて来る声はお経を読んでいるみたいで、ただ静かに、時折沈黙を挟み、ぶつぶつグダグダといつまでも続いていた。
あたしは「出来た」妹だけど、お茶は出さなかった。大福もプリンもふたつずつ買ってある。お茶とお菓子を出せば、あたしの分が無くなるから。
早く帰ればいいのに、と思ったのは本音。時計を見れば１０時を過ぎている。お兄ぃが紳士なら、「送っていくよ」と二人で出て行くんだろうけど。
あたしはお風呂に入って、おニューのベビードールを着ると、洗濯機を回して、リビングでひとり、プリンを食べた。
二階に上がって、お兄ぃの部屋の前で足を止めた。やけに静かだな。ひょっとしてもう帰った？ あたしがお風呂に入っている間に？ ドライヤーの音で聞こえなかったのかも。
部屋の扉をそっと開けて、中を覗く。ＰＣのモニタは真っ黒で、電気は付けっぱなし。中央に置かれたテーブルの上には書類がごったまぜに積み重なっている。
そして二人はベッドの上に居た。
熱っぽい吐息と、衣擦れの音に鳥肌が立った。
押し倒されている女はお兄ぃの背中に隠れて見えなかった。ただ白くて細いふたつの手が、お兄ぃのシャツを握りしめていた。
「何してんだよ人ん家で！」
怒りで頭がどーにかなりそうだった。
「きゃあっ」と、女は鳴いて、はだけたブラウスの胸の辺りを握りしめ、乱れた髪もそのままにお兄ぃの腕を振りほどき、「ごめんなさい」と呟いて部屋を出て行った。何処かで見たことのある女だった。いや、会ったことがある。名前なんて覚えてないけど。
「もう二度と来ないで！」
階段を踏み外しそうな勢いで逃げて行く女に、唾を吐きかけるように吠えてやった。お兄ぃは苦虫を噛んだ表情で私を睨んで、派手に溜め息を吐いた。
玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
「……何してんの……キモい。ホントにキモい。死ねば？」
「……あのさ、ピーピングトム止めてくんない？ マジで」
「お兄ぃが誘ったの？」
「どうでもいいでしょ。成り行きってか、雰囲気？ で、こーなることもあるってことで。……つーか出てけよ、今此処侵入不可領域だから」
本当はひっぱたいて、足蹴りを食らわせたいところだった。それを我慢した自分は偉い。その代わり、ノブが千切れるくらいの勢いでドア閉めてやったけど。
偉そうに。お兄ぃのくせに。弱弱でカスカスのくせに。
あたしにあんな口きくなんてムカつく。
別に床が抜けたっていいと思ったから、思いきし踏みつけて階段を下りて、玄関の鍵を二重にロックした。ついでにキッチンでお兄ぃの分のプリンも食べた。
侵入不可領域って何？ この家自体が聖域だし。私達以外の闖入者なんて絶対に許さない。お兄ぃが許してもあたしは許さない。
ああ、今アンナウンが現れてくれないかな。今だったら、東京や神奈川の力も借りずにあたしひとりで全部ぶっ殺せる自信あるし。そうだ、明日は燃えるゴミの日だった。お兄ぃって燃えるゴミなのかな？ 死んだら火葬するんだからきっと燃えるゴミだ。
リビングの明かりを付けて、ソファの上に膝を抱えて座った。
あたしはその時初めて、自分が震えていることに気付いた。
あたしが踏みにじった階段をいたわるように、猫足でお兄ぃが下りて来た。お兄ぃはそのままバスルームに入り、やがてシャワーを出す音が微かに聞こえた。
お兄ぃの部屋には資料が山積みだった。もしかしたら、この後あの女の所に届けに行くかもしれない。そうしたらきっと、続きをするに決まってる。
ぞっとした。鳥肌が立った。
今のうちに、あの資料の山を燃やしてしまおうか。あと車のキーも隠して。
そんなことを考えていると、風呂上がりのお兄ぃがリビングに来た。Ｔシャツにスウェットパンツの姿を見て、外に出て行く気が無いことがわかって。
安心してる自分がいた。そんな自分にムカついた。
お兄ぃは黙ったままキッチンへ向かうと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。空になったペットボトルが床に転がる音がして、ぐしゃっ、と、踏みつぶす音に鬼気を感じた。
お兄ぃは感情を表には出さない。
いつも無関心を装っている。
でもあたしにはわかる。今お兄ぃは怒ってる。
「……おやすみ」
かろうじて聞き取れる声で、お兄ぃが呟いた。
「……付き合ってたの？ あの女と」
リビングを出て行こうとするお兄ぃを引き止めるために、咄嗟に口を付いたのは。
「……いや、別に彼女とかじゃないけど」
「じゃあなんであんなことしたの？」
膝をぎゅっと抱えて、顔を埋める。お兄ぃの顔を正視出来ない。
お兄ぃはソファの端っこに腰を下ろした。同じシャンプーの匂いが漂う。
「……あのさ、お兄ちゃんだって健全な男だよ？ 性欲だってフツーにあるし。それってそんなに怒られるようなこと？」
「……あの女のこと、前から好きだったの？」
「いや、別に……嫌いではないけど……」
「好きじゃないのに抱けるの？」
「……まあ男ってのはそんなもんでしょ。でなきゃ風俗産業なんて成り立たないし」
「……いで……」
「へ？」
「あたし以外の女に触らないで！！」
しぃん、と辺りが静まり返った。
「……とりあえず落ち着こう、な？ お前感情的になると言ってること滅茶苦茶になるし。冷蔵庫にプリンあったよな、食べるか？」
そんなもん、とっくに食べたっつの。もう無いし。
「プリン食べたら機嫌直ると思ってんの？ 子供扱いしないで」
「いや言ってること完全に子供でしょ……」
怒鳴ったら、幾分か気が晴れた。お兄ぃが側に来たら、体の震えが止まった。
今になって、咄嗟に本音を口にしてしまったことを後悔した。馬鹿だな、あたし。ケータイで動画撮って、ＳＮＳにアップする、て脅して、後々まで言うこときかせるようにした方が面白いに決まってるのに。あたしってばどうかしてる。
「……ごめん……今言ったこと忘れて」
「……お前がぶっちゃけてくれたおかげで俺も冷静になれたわ。俺もお前が他の男と部屋でセックスしてたら多分キレてるし……だからその……悪かったと思ってる」
「何それ……素直に謝られるとキモいんだけど」
「いいよ、俺はいつだってお前のキモいお兄ちゃんですから」
そうっと顔を上げて、横目でお兄ぃを見た。苦笑いをしていたその顔が、あたしと目が合った瞬間、真顔に変わった。
「……何？」
「何って……そんな、お前……泣くほど？」
言われてほっぺたを触ったら濡れていて、びっくりした。あたし、泣いてた？ 信じらんない、乙女じゃん。千種明日葉のキャラ崩壊してるじゃん。
お兄ぃはお兄ぃで動揺してるし。あーそのパジャマ、この間買ったやつだっけ？ うん、似合うよ、センスがいいんだな。お前意外とフリルとか女の子っぽいデザイン好きなんだな、なんて、今更おだててくるし。フツーに恥ずかしいんですけど。
「冷蔵庫にプリンあったよね、食べよう。うん、一緒に食べよう」
……だからそれはもう無いんだってば。
「無いよ、プリン」
「え？ そーだっけ？」
「此処」
あたしは自分のおなかを指差した。
「あー…… そゆこと」
「食べたかった？」
「んー…… まあ、成田ゆめ牧場限定生産のプリンだったからね……」
張りつめていた空気が緩んだ。あたしは動揺しているお兄ぃを見ているのが好きだから。
だから、キスをした。
「まだプリンの味残ってるよ」
「……甘さ控えめなところが何とも……じゃなくて、兄妹同士で舌挿れるキスはしないよね、おかしいよね」
おかしいとかフツーじゃないとか、どうでもよかった。赤い糸とか、信じてないけど。ていうか絶対お兄ぃと繋がってるワケないけど。糸なんて、すぐ切れるモノはいらない。
あたしが欲しいのは鎖。赤い鋼鉄の鎖。
「……あの女にしたこと、あたしにもしてよ」
顔色を変えて後ずさりを始めたお兄ぃのＴシャツを掴む。
「兄妹でそーゆーことはしちゃいけないの。大体女抱けなかったから妹を代用するとか鬼畜でしょ、下衆の極みでしょ、そんな設定アダルトビデオにしか存在しないからね」
「お兄ぃは元から下衆じゃん」
「何？ お前下衆好きなの？ そんな変態嗜好は捨てなさい」
お兄ぃはあたしと視線を合わそうとしない。あたしはソファから立ち上がると、ベビードールを上下とも脱ぎ捨てた。
「ちょ、……明日葉！ 着なさいコレ、てゆーか着て！！」
床に落ちたベビードールを拾っているお兄ぃを尻目に、あたしはパンイチでリビングを出て二階に上がり、お兄ぃの部屋のベッドの上に座った。さすがにちょっと冷えるな、このままじゃ。
早足で階段を上って来る音が聞こえて、部屋に駆け込んで来たお兄ぃに、ベビードールを押し付けられた。
「だから悪かった、って。俺が悪かった。ごめんなさいすみません申し訳ございませんでした。だからコレ着て下さい」
マジで必死のお兄ぃ、超ウケる。だから簡単に許してなんかやらないんだ。
「……あたしってそんなに魅力無い？」
「それとこれとは話が違う！ お前ホントどこまで俺を追い込めば気が済むの？」
「あたしのこと抱くまで？」
「……からかってんなら本気で怒るぞ」
「あたし本気だけど」
「あー、ひょっとしてヤキモチとかいうやつ？ 何？ 普段キモいとかウザいとか死ねとか言ってる癖に実はお兄ちゃん大好きだった、的な？」
「……悪い？」
「……突っ込んで、其処は。何で受け流す？ ホントどうかしてるよお前」
「……っくしゅ！」
演技じゃなくて、ホントにくしゃみが出た。このコント、いつまで続くのかな。
お兄ぃは布団の端をめくり上げると、あたしをラッピングし始めた。何なの？ おにぎりじゃないんだから海苔巻かないでよ。
「……傷、付けたくないから」
「何？ 聞こえない」
「大事だから傷付けたくない」
ちくん、と胸が痛んだ。わかってるよ、そんなこと。言わなくたって。なのになんで本当のことが言えるの？ あたしは嘘しかつけないのに。
「……あたし、初めてじゃないよ？ 彼氏くらいいるもん」
「……嘘でしょ？ 嘘だよね？……ちょっと相手の名前と所属部署と電話番号教えてくれる！？」
嘘だった。あたしはどこまでも嘘つきで、真実（ほんとう）のことなんて言えないダメダメなオオカミ少女なんだ。
だからムカつくんだ、お兄ぃにも、あたし自身にも。
あたしは布団を剥ぐと、隙を突いてお兄ぃに抱きついた。首の後ろに腕を回して、唇を塞いで、舌を絡めとって吸い続けた。腕の力には自信がある。ていうか身体能力はお兄ぃよりもあたしが上だし。
「んーっ……」
お兄ぃが苦しがってあたしの肩を掴む。
お願いあたしを壊して。
こんなあたしなんて、壊しちゃってよ。
「……やっ……」
「……はーっ…… はー……」
うっかり唇を離してしまったのは、乳首を強く摘まれたから。正直ちょっと痛かった。
「……お前、さ、こん、な……ムードの、カケラもない……キスされたって、勃たないっつの……」
ムカついたと同時に、凹んだ。
「うっさいなー……だったらお兄ぃからしてよ……」
お兄ぃは両手で前髪を掴むようにして項垂れた。はああああ、と大きな溜め息を落としたまま、何も言わない。
このままそっと布団をかけられて、「俺、お前の部屋で寝るわ」言われて、放置プレイされることを考えたら、惨めで泣きたくなってきた。
へっぽこな一人芝居。全っ然笑えない。
ていうか、マジに涙が出そう。だったらもう、自分から部屋に戻った方がまだマシじゃん。
「……って」
「へ？ 何？」
「……目、閉じてくれる？ 今の俺の顔、お前に見られたくないから」
言われて、ほっぺたが熱くなっていくのを感じた。あたしだって、こんな惨めな顔見られたくないのに。
黙って目を閉じたら、すいっと髪を撫でられた。後頭部を支えるように項に手を当てられただけなのに、なんかドキドキした。唇が、優しく触れる。
お兄ぃのもう片方の手が、背中を擦ってくる。あたしが背中触られると弱いこと、ちゃんと知ってるし。わざとらしく音立てて、唇吸ってくるし。
自然に、体の力が抜けていく。悔しいから、お兄ぃの耳をそっと摘んだ。お兄ぃは耳が弱いから。そっと撫でると、キスが急に深くなった。
「んぅ……」
あ、舌吸うんじゃなくて、絡めるんだ。でもこのままじゃ、涎が溢れる。……あれ？ あたしいつの間にか押し倒されてる？
「……明日葉」
湿った吐息が耳に触れる。
「何……？」
「お前ホントに覚悟あんの？」
「……あるよ」
「そっか」
お兄ぃはちょっとだけ、何かを考えているみたいだった。それからあたし達は裸になった。お兄ぃはベッドを抜けて、ハンガーにかけてある制服の内ポケットを探ると、小さな包みを取り出した。コンドームは保健体育の授業で全員に配られる。あたしは友達と「中にどんだけ水が入るか」トイレの蛇口で水風船作って、破裂させて遊んだから持ってないけど。
あたしはお兄ぃがコンドームを着けるのをじっと見ていた。
「……お前、キモいとか言わないの？」
「だって、お兄ぃの見たことあるもん。朝いくら起こしても起きないから、一回パンツ脱がした時。お兄ぃそれでも起きなかったし」
「マジか……」
「あたしが無理って言うと思ったっしょ」
お兄ぃは図星を突かれると黙るからすぐ分かる。
「怖くなんかないよ。お兄ちゃんやさしいから」
あたしはこの人と兄妹として生まれたことを恨んでなんかいない。
お兄ぃは本当に優しくあたしを抱いた。体中にキスをされて、我慢しても声が出るくらいに気持ちいいとこを触られて、舐められて、汗だくの体で抱き合って、キスを繰り返した。指で大分慣らしたけど、お兄ぃが中に入って来た時はさすがに痛かった。でも痛くないと嘘をついた。お尻の辺りがじわっと濡れて、一瞬漏らしたのかと焦ったけど、血の匂いですぐに気付いた。
処女じゃないって嘘は、簡単にバレた。
「……サイテーだな、俺……」
「別に……お兄ぃは悪くないよ。あたしが嘘つきなだけ」
「嘘だってのは気付いた。だから途中でお前がビビって拒んでくれないかなーって」
「……後悔してる？」
肯定されたら、哀しいな。あたしはお兄ぃとひとつになれて、嬉しかったから。
「俺、自分で思ってた以上に理性カスカスだったわ……我慢、出来ないんだけど」
「我慢、しなくていーよ。ね、あたしの中気持ちいぃ？」
「馬鹿……言わすな」
お兄ぃのことだから、きっとどうしたら痛くないかって、考えてる。どうしたって、痛いよ。想像してたより、結構出血してる。
「あ……っ」
奥を突かれて、思わず声が出た。両足首を掴まれて、肩の上に担がれる。この体勢はちょっと屈辱かな。突き込む速度がどんどん早くなって、もう声上げるのも我慢出来なくなって、ああ今あたしお兄ちゃんとエッチなことしてるんだ、しちゃったんだ、て思うと頭がぼうっとしてきた。
お兄ぃがすごく辛そうな声で、あたしの名前を呼んだ。激しかった腰の動きが止まった。
甘えた声で「お兄ちゃん」と呼んだら、優しくキスされた。
あたしはイかなかったけど、お兄ぃが気持ちよかったならいいや。
優しく抱き合って、キスして眠りにつくなんてのはドラマや漫画の話で、実際は後始末が面倒臭かった。お兄ぃはお湯を入れた洗面器とタオルを持ってきて、あたしのあそこを丁寧に拭った後、布団の染み抜きをした。元々グレーの布団だから、少々残ったとしても気付かないような気もするけど。
「……ごめん」
「何でお前が謝る？ 悪いのは俺だし……」
あたしにはコールドスリープする以前の記憶が殆ど無い。だけど、なんとなくだけど、覚えていることがひとつだけある。あたしはトマトが大嫌いなのに、お母さんはいつも「好き嫌いしないで食べなさい」と言った。あたしがお皿の上に残ったトマトをいつまでも突いていると、お兄ぃが横からさっと手を出して、摘んで食べてくれた。お母さんに気付かれないように。
そんなことを思い出したのは、洗面器に張ったお湯が真っ赤になってたから。
あたしは慣れっこだけど、お兄ぃにはこの匂い、キツいかも。
「……今晩此処で寝てもいい？」
「いいも何も……別々の部屋で寝る方がおかしいでしょ」
お兄ぃが洗面器を片付けに行っている間に、あたしは布団に潜って、まだ鈍い痛みが残る下腹部を摩った。戻って来たお兄ぃは、下着とスウェットパンツだけを穿いて、布団に入った。
「お前パジャマ着ないの？」
「パジャマじゃないよ、ベビードール」
「……どっちでもいーけど。風邪ひくなよ」
「お兄ぃがあっためて」
暗がりの中でも、お兄ぃが耳まで赤くなってるのがわかって、ふっと口元が緩んだ。
「何照れてんの？ キモい」
「お前のそういう猫みたいなとこ、可愛いなーって……」
「好き？」
「……好き、ではないかな……」
何それ？ 言ってる意味がわかんない。お兄ぃはもぞもぞと体を動かして、あたしを包み込むように抱いた。やっぱりあったかいや。
「……愛してる、……みたいな？」
小さな小さな、小さな声で。
それでもあたしは嘘しかつけないから。
「大っ嫌い」
ひとつだけ、嘘。
END