「そー……」
　交差した親指の爪が、神楽の顎の下に食い込んでいく。
　「逃がさねェ……」
　神楽は咄嗟に総悟の手首を握った。

　嘘。

　頭の中に浮かんだ言葉は、一瞬にして焼失した。
　「お前だけは」
　喉笛が押しつぶされる。声も出ない。息も出来ない。血流が滞った頭が、ぴりぴりと痺れて、熱い。

　嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘……
　
　総悟はそんなことしない……

　「置き去りにされるのは、もうたくさんでィ……」
　黒い双眸の奥に、狂気の炎が揺らめく。
　神楽の爪が、総悟の手首に食い込む。皮膚が破れ、黒い血が滲み出た。
　「エウッ……」
　総悟の力に押され、神楽の体は弓反りになる。見開かれた目から涙が零れ、口元からは涎が滴った。

　こんな所で。
　こんな奴に殺されてたまるか！

　神楽は無我夢中で、血まみれの手を、総悟の口の中へ突っ込んだ。
　「ぐえっ…」
　喉の奥を突かれ、総悟は神楽を放すと、ベッドから身を乗り出して床の上に嘔吐した。
　「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ……」
　仰向けに倒れた神楽の肺に、一気に空気が流れ込み、咳は止まることなく響いた。
　その時、部屋の扉が静かに開いた。
　「そ、総ちゃんっ？　……だ、誰か！　誰か来て！」
　動転したミツバは、部屋の電気をつけて、明らかになった惨状に腰を抜かした。吐瀉物や血痕が散乱し、青い顔をした神楽は、ヒューヒューと奇妙な呼吸をしたまま、動かない。
　「どうした、何事だっ」
　駆け付けた近藤と山崎は、各々床に倒れている総悟と、ベッドの上で意識を失いかけている神楽の元へ駆け寄った。山崎は、神楽の首筋に締められた痕跡を見るや否や、戦慄に体を震わせた。
　「神楽ちゃん？　神楽ちゃん！　しっかりして！」
　山崎は神楽の頬を何度も叩いた。大丈夫、と言いかけて、神楽はまた咳き込んだ。
　「これは……一体どういうことだ、総悟！」
　近藤は吐瀉物から漂うアルコール臭に気付き、倒れている総悟を引きずり上げると、両肩を掴んで揺さぶった。
　「どういうことなんだ説明しろ！」
　総悟は茫然自失の状態で、近藤の怒号にも反応しない。
　「きゅ、救急車を呼びましょう……！」
　ミツバは震える足で、壁伝いに立ち上がろうとした。
　「オイ、山崎、メイドの意識はあるんだな？　手足が動かせるか確認しろ！」
　最後に扉から姿を現わした土方が言った。神楽はぼんやりとした意識の中で、ゆっくりと右手を上げた。
　「救急車は呼ぶな。間違いなく警察に通報される」
　「そんな……」
　「誰がどう見たって殺人未遂だろーが」
　ショックで気絶しそうになっているミツバと、認めたくない事実に唇をしたたかに噛み締めて耐える近藤に向かって、土方は冷静な口調で言い放った。
　「ミツバ、お前の持ってる酸素吸入器を持って来い。山崎、メイドを動かすなよ。そのまま寝かせておけ」
　ハッとして、ミツバは即座に立ち上がると、土方の横を擦り抜けて自室へ向かった。山崎は神楽が意識を失わないように、握った手を摩ったり、叩いたりした。
　土方は廊下に置かれていた花瓶から花を引き抜き、たっぷりと水の入ったそれを抱えて部屋に入った。
　「近藤さん、ちょっと下がっててくんねぇか」
　「トシ……？」
　近藤が手を放すと、総悟はベッドに背中を凭れ、ぐったりと項垂れた。土方は勢いをつけて、花瓶の水を総悟の頭目掛けてぶちまけた。
　「目ぇ醒ませこの馬鹿タレが！！」
　土方は花瓶を床に転がすと、総悟の胸ぐらを掴み、強烈な平手を打ち付けた。
　「てめぇが殺したかったのはこの俺だろーが！！　俺ぁなあ、ミツバを嫁にもらうと決めた時点で、てめぇに命狙われる覚悟でこの屋敷に来たんだよ！　てめぇの度胸を試すためにな！　それが何だこのザマは！　鬱憤晴らしに女ぁ手にかけるなんざ外道以外の何者でもねぇ！！」
　土方の怒号に正気を取り戻した総悟は、胸ぐらを掴む手を乱暴に払い退けた。口の中に溜まった血を床に吐き捨て、鼻から流れ出た血をシャツの袖で拭った。
　「目障りなんだよ……俺の大切なものを、何もかもかっさらっていくテメェがなァ！」
　「上等だ。今直ぐ庭へ出ろ。その捻くれた根性叩き直してやる」
　酸素吸入器を持って現れたミツバは、二人の剣幕に怖れをなし、その場にへなへなと座り込んだ。
　「近藤さん、木刀を持って来てくれ。コイツにゃ仕置きが必要だ」
　土方の言葉に従うため、近藤は歯を食いしばり、部屋から出ようとした。
　「いけません！　お父様、止めて下さい！」
　ミツバは目に一杯涙を溜め、近藤に縋り付いた。
　「総悟がしたことは許されることではない。罰を受けるのは当然の仕打ちだ」
　「それはわかっています。でも、二人にもしものことがあったら、私は生きていかれません！」
　「辛いのは俺も同じだ！　だがこのしごきに耐えられないようでは、この先『真選組』の一員として、共に戦うことを認めるわけにはいかん！」
　近藤の言葉に、総悟は眉をひそめた。
　「真選組……？」
　「チッ……近藤さん、その話は後だ。総悟、今の言葉は忘れろ。お前にその資格はねぇ」
　土方は吐き捨てるように言うと、近藤に続いて部屋を出た。
　
　 朦朧とした意識の中で、神楽の目から涙が零れ落ちた。
　ドＳ馬鹿の変態のロクデナシのヘタレでも。
　これ以上痛めつけないで。

　総悟を、これ以上痛めつけないで…

　神楽の想いは言葉に出来なかった。喉が灼けるように熱い。声が、全く出ないのだ。
　「総ちゃん、謝りなさい。神楽ちゃんと、お父様と、十四郎さんに。心から謝って、お許しを乞うのよ」
　ミツバは涙を流して訴えたが、総悟は押し黙ったまま、部屋を出て行った。
　「山崎さん、お願い、止めて……」
　「……出来ません」
　山崎はミツバが床に落とした吸引機を拾うと、神楽の口元にフィルターマスクを当て、少しずつ酸素を送り込んだ。
　「今度ばかりは、俺も庇いきれません……」
　白い天井を見上げながら、神楽はミツバのすすり泣きを聞いていた。
　やがて窓の外から、番犬として全く役に立たないはんぺんが、激しく吠える声が聞こえてきた。

　怒りを剥き出しにした総悟の攻撃を、土方は真っ向から受け止め、全て打ち返した。
　左肩を突かれ、脇腹を強打された後、総悟は胃液と血を吐き戻したが、再び平青眼の構えを取った。
　一撃。たった一撃でいいのに、それさえも叶わない。
　
　 『お前にその資格はねぇ』

　その一言で、切り落とされた。
　捨てられた。
　置き去りにされた。

　「あああああああああああ！」
　総悟は気合いの咆哮を上げ、断ち筋を変えて斬り掛かる。八相の構えから渾身の一撃を受け止めた土方と、鍔迫り合いの末、総悟の剣は打ち返され、ぐらり、と揺れた上体に、止めとばかりに土方の一撃が右腕に炸裂した。
　総悟の手から、木刀が滑り落ちた。
　「トシ」
　近藤の制止で、土方は攻撃を止めた。
　総悟はその場にくず折れると、己の無力さに絶望した。
　「近藤さん、これでわかったろう。総悟を真選組に入れるこたぁ出来ねぇ」
　「……」
　近藤は総悟に歩み寄ると、ボロボロになった体を担ぎ上げ、屋敷の中へ運んだ。
　「総ちゃん！」
　ミツバは総悟の姿を見るなり、激しく取り乱した。ずぶ濡れの衣服を脱がせれば、そこかしこに鬱血した跡があった。
頬は腫れ上がり、口元から顎の下まで血で染まっていた。
　お湯を入れた洗面器とタオルを持って、山崎が姿を現わした。
　「メイドの様子はどうだ？」
　土方が尋ねた。
　「呼吸は安定しています。水を少し飲ませて、そのまま寝かせています」
　山崎の言葉に安堵した土方は、ソファに腰を下ろし、煙草に火を付けた。
　ミツバは泣きながら総悟の体を熱いタオルで拭き、山崎は黙って傷の手当てにかかった。痣は濃い葡萄色から青緑色になって拡がっていたが、骨が折れている様子はない。土方が手加減をしたのは明らかだった。
　醜態を晒した挙句無様に叩きのめされ、総悟はいっそのこと殺された方がマシだったと思っていた。ただ、神楽が生きていてくれたことだけが、嬉しかった。
　「……勘当して下せェ」
　無意識に、口をついて出た言葉に、辺りは静まり返った。
　「俺は、この家に必要ねェ存在です」
　「何言ってるの総ちゃん！　そんなことあるわけないでしょう！」
　ミツバが声を荒げて叫んだ。
　「総悟、お前に話さなければいけないことがある」
　絨毯の上にパンツ一枚で座っている総悟の横に、近藤が腰を下ろした。
　「天人の襲来や攘夷浪士の活動により、江戸の治安は悪化する一方だ。警察も増員に躍起になっているが、即戦力として使える人材の確保に難航しているのが現状だ。そこで俺とトシは、廃刀令が出されてから行き場を失っている門下生を集め、特殊機動部隊として組織を立ち上げることを計画した」
　総悟の表情は暗く沈んだ。「お前にその資格はねぇ」……土方の言葉の意味が、理解出来たからだ。
　「だが、実戦部隊としてどこまで使えるかわからない組織に、国家から予算を回すことは出来ないと言われた。俺とトシは金策に奔走したが、集まった資金でも組織を運営していくには到底足りん。私財を投じる覚悟を決めねばならなくなった。だがそうなれば、この屋敷は抵当に入れることになる。お前を……大学に行かせることも、かなわなくなる。だから今まで話せなかった」
　「……なん……で……」
　「計画実行のメドが付くまで、お前には話さないようにしていた。だが今は、それが誤りだったと思っている。すまなかった、総悟」
　「俺は……俺は、大学進学なんてどうでもいい。父上が決断したことなら、迷わずそれに従うに決まってるじゃないですか！　父上と共に戦う道を選ぶに決まってるじゃないですか！」
　総悟は身を乗り出して叫んだ。
　「お前ならきっと……そう言ってくれると思った……だが、命を賭けた危険極まりない職務に、大事な息子を巻き込みたくない気持ちの方が大きかった……真選組の長となり、お前を隊士として所属させるからには、親子の情を捨てねばならん。その覚悟がつかなった、俺はただの甘い父親だ……」
　「近藤さん、そいつは侍にはなれねぇ、ただの人殺しだ。そもそも入隊出来る資格なんざねぇんだよ」
　土方が口を挟んだ。総悟は俯き、唇を噛み締めた。それは正論だと、認めざるを得なかった。

　己の欲望のために、神楽を手にかけた。
　人間のクズだと、言われても仕方ない。

　「総ちゃん……十四郎さんも、お父様と同じなのよ……」
　「余計なこと言うんじゃねぇ、ミツバ！」
　土方は一喝したが、ミツバは怯まなかった。
　「いいえ、言わせてもらいます。総ちゃん、十四郎さんはお父様にもしものことがあった時のために、あなただけは生かしておきたかったの。隊士となれば、前線で戦うことは必至だからよ。あなたの剣の才能を認めてるからこそ、自ら勧んで死地へ飛び込んで行くことが想像出来たから、だからあなたがどんな行動をとろうとも、その資格はないと切り捨てるつもりでいたのよ」
　土方はあからさまに不機嫌な表情をして、ソファから立ち上がった。
　「風呂、借りるぜ」
　総悟は足早に部屋を出て行く土方の背中を目で追った。
　「総ちゃんを大事に思っているのはみんな同じよ。大事な家族だもの。血がつながってなくても、私達は家族としてずっと幸せに暮らして来たでしょう？」
　ミツバは総悟を強く抱き締めると、濡れた髪の毛をやさしく撫で付けた。総悟の胸の中に、熱いものが込み上げて来た。後悔の波が、怒濤のように押し寄せて来る。総悟はミツバを押し退けると、全身を駆け巡る激しい痛みをこらえ、近藤に向き直り、土下座をした。
　「お願いしやす……俺を、真選組に入れて下さい。親子の縁を切られても構いません。父上のためなら、俺は命を賭けてでも戦う覚悟がありやす。両親を亡くした俺を育ててくれた父上の恩に報いるために、俺が出来ることはそれしかありやせん」
　「総悟……」
　「簡単に許されるとは思っていやせん。どんな罰でも甘んじて受けます。だからこそ、一生を賭けて罪の償いをさせて下せぇ！」
　山崎は総悟の背中にそっと、バスタオルをかけた。一向に頭を上げようとしない総悟に、近藤は込み上げる涙をこらえ、その背中をやさしく摩った。
　部屋の外で、土方は腕組みをしたまま壁に寄り掛かり、会話の内容をじっと聞いていた。
　「馬鹿野郎……」
　土方は小さな声で呟くと、深い溜め息を落とした。