「失礼します」
　客間の扉を開けた山崎に続いて、神楽はティーセットを乗せたワゴンをひいて中へ入った。
　部屋の空気は部分的に凍り付いていた。正確には総悟が座っているソファの半径５０センチ付近のみ。
　「お茶をお持ちしました……」
　ただならぬ気配に怯んだ山崎は、声を窄めた。神楽は腕にぷつぷつと鳥肌が立つのを感じた。「家族団欒」以外の何物でもないこのシチュエーションで、漲る「殺気」を感じてしまう不可解の極地。
　「隠してたわけじゃないのよ、総ちゃん。本当に、プロポーズされたのが昨日だったの」
　総悟の隣に座っているミツバは、左手の指輪を右手で覆い隠していた。
　神楽と山崎は「聞いていないフリ」をしながら、黙々と茶器と菓子皿をテーブルに並べた。
　「総悟ぉ……まあ、お前の気持ちもよくわかるが、ミツバの幸せを願えばこそ、温かい目で見守ってやってくれないか」
　近藤がぎこちない笑顔で場を取り繕う。
　「コイツと結婚して姉上が幸せになれるとは俺ァ信じられませんね。胡散臭い自営業の男が、ウチの財産目当てで姉上に近付いたと考える方が自然でしょう」
　「総ちゃん、違うわ。先に告白したのは私なの。でもあっさり断られて、それで私も諦めていたのよ」
　「止めとけ、ミツバ。コイツにゃ何言ったって無駄だ」
　土方はテーブルに置かれたコーヒーカップを取り、香りを楽しんだ後、口に含んだ。
　「どういう意味でィ」
　神楽は桜を入れたカップのひとつひとつに、紅茶を注いだ。

　「てめェがガキだからだよ」
　　
　 しん、と場が静まり返った。
　刹那。
　総悟の怒りの嵐は、テーブルに並べられた色とりどりのティーセットを滅茶滅茶にした。呆気に取られたギャラリーの中で、素早く総悟の前に立ちはばかったのは神楽だった。その時初めて総悟の顔を見た神楽は、完全に我を失っていると判断すると、即座に平手をお見舞いした。
　「何しやがんだテメェ！」
　「止めなさい総ちゃん！　総ちゃんが悪いわ！」
　総悟は神楽の胸ぐらを掴んだが、神楽は怯まなかった。どんな一撃が返って来たとしても、受け止めることで、少しでも冷静さを取り戻してもらえるのなら、それでいいと思った。
　「いい加減にしろ！　その女を殴ったら俺が許さねぇ！」
　土方の声には覇気がこもっていた。
　「……総悟、部屋に戻ってしばらく反省しなさい！」
　近藤の厳しい口調に、総悟は神楽を突き放すと、扉を蹴り飛ばして客間から出て行った。
　山崎がバケツと雑巾を用意するため部屋を抜け、神楽は割れたカップと茶菓子を拾い集めた。
　土方は縁側で煙草を吸い、近藤は頭を抱えたまま座っていた。
　「……結婚、するんですか？」
　涙目になっているミツバに、神楽はおずおずと声をかけた。
　「総ちゃんに祝福してもらえないなら、考え直すわ……」
　「そんな……」
　「ごめんなさいね、折角用意してもらったのに、滅茶滅茶になっちゃって……」
　ミツバは着物の袖で、そっと涙を拭った。
　神楽には土方十四郎という男がどんな人間かもわからなければ、総悟との確執の理由も見当すらつかない。
　だけど。
　「……幸せになって、欲しいです……総悟だって、本当はきっと、そう思ってます。総悟は家族を何より大切に思ってるんです。だから、だから…自分の知らないところで、勝手に話が進んじゃったことが、自分だけ除け物にされたみたいで、きっと悔しかったんです」
　その場にいる全員が、神楽の純粋な言葉に静かに耳を傾けていた。
　ミツバは再び涙を拭うと、神楽に優しく微笑みかけた。
　「神楽ちゃんはやさしい子ね。きっと、そう……もう少し時間が必要なのよ」
　そよに言われたからではない。神楽は、総悟が学校へ行かず、屋敷にひきこもっていた理由がわかっていた。
　総悟は父が不在である間、訪れる客人の応対をし、姉にもしものことがあった場合はすぐに病院に駆け付けられるよう、待機していたのである。
　近藤家の長男として、責務を果たすために。
　「これでは肝心な話が出来そうにないな……」
　近藤が肩を落として呟いた。

　昼には出前で注文した寿司が届き、神楽は総悟の分を取り分けて部屋へ運んだ。
　「総悟、エサ持って来たアルヨー」
　何度ノックしても返事は無く、神楽はそっと扉を開けた。
　中に人の気配は無い。
　「……アレ？」
　トイレに行ったのかもしれないと、しばらく待ってみたが、総悟は戻って来なかった。
　神楽はテーブルの上にトレイを置くと、一旦部屋を出た。山崎から客室のベッドメークをしておくように頼まれていたため、神楽はリネン室からシーツとタオルを出し、土方が泊まる部屋へ向かった。
　今日で辞めると固く決めたのに、完全に切り出すタイミングを逃してしまった。
　銀時からは「次の依頼が入ってるから早く帰って来い」とメールが来ていた。「今日も無理そう」と返信すると、「ボヤ騒ぎでも起こしてずらかれ」と切羽詰まった返信が来た。
　「だって、放っておけないヨ……」
　かと言って、どうしたらいいかもわからない。
　迷路の出口が見つからず、途方に暮れた子供の気分だ。
　「なんだ、此処にいたのか」
　枕とカバーを手にしたまま放心していた神楽は、土方の声で我に返った。
　「総悟の奴、どうしてた？」
　土方は持って来た鞄を窓際の椅子の上に置くと、中から煙草を取り出した。
　「えっと、あの、お部屋にいませんでした……」
　「フン、逃げたか。駄目だな、ありゃ。話にならねぇ」
　土方がジッポライターを出したのを見て、神楽はベッドのサイドテーブルの引き出しから灰皿を取り出し、机の上に置いた。
　「あの総悟に一発かますたぁ、ただの小娘じゃねぇな。見上げた度胸だ。メイドにしておくのが惜しい」
　正体がバレたような気がして、神楽はごくり、と唾を飲み込んだ。
　「俺はこれでも人を見る目に確かな自信を持ってる。お前さんは総悟よりよっぽど使えると見た」
　「それは……自分でもそう思うアル」
　煙草の煙を吐き出して、土方はくっくっと腹を抑えながら笑った。神楽は素知らぬ顔で、やりかけていたベッドメークに取りかかった。
　「変な話だが、お前さんは総悟が人を殺せると思うか？」
　「……多分、無理ネ」
　「どうしてそう思う？」
　「根がやさしいから」
　本当に変な質問だと神楽は思った。
　「そういうあなたは人を殺せるアルか？」
　神楽は作業の手を止めて、土方の目を見た。ミツバとこの男は「陽」と「陰」。相性としては最高だろうが、挑発的な言動といい、横柄な態度といい、ミツバのフィアンセとして、神楽は気に入らなかった。
　「殺せる人間と、殺せない人間の違いは『育った環境』だと、俺は思う。俺は前者で、アイツは後者だ」
　神楽は僅かに目を細めた。自らを人殺しだと公言する男の何処にミツバは惚れ込んだのか、世界三大ミステリーにノミネートされてもおかしくはない。
　「あなたは、人殺しなの？」
　「現時点では『否』だ。だが勘違いすんじゃねぇぞ。殺しはあくまで『手段』であって『目的』じゃねぇ。己の信念と誇りを賭けての戦いなら『手段』を辞さない、故に侍と人殺しは違う。俺は前者でありたいと思っているだけの人間だ」
　「総悟を、殺すつもり？」
　「……まさか。アイツが俺を殺してぇんだろ」
　「総悟はそんなことしない」
　「俺はアイツを試してるんだ。どっちを選択するかで、アイツの未来が決まる」
　「私にはあなたの言おうとしていることがわからない」
　土方は煙草を揉み消すと、窓を開けた。
　「……一つ頼みがある。お前ずっと、総悟の傍に居てやってくれないか。この先何があっても」
　神楽は返答しなかった。
　「……失礼します」
　わけがわからなかった。土方が何か企んでいることは確かだったが、物騒なことに巻き込まれる前に、総悟ともう一度会って、話をしなければいけない気がする。神楽は再度総悟の部屋を訪ねたが、水分の蒸発した寿司がそのまま放置されているだけだった。

　日暮れ時が近くなると、山崎と神楽は食事と風呂の準備で慌ただしく動き回った。総悟が屋敷から出て行ったと知り、ミツバは探しに行くと訴えたが、土方と近藤に制止された。
　「わ、私が探しに行くアル！」
　食事の配膳が整ったところで、神楽が申し出た。土方が「放っておけ」と言わなかったので、神楽は仕度をしに一旦自室へ戻りかけて、はたと気付いた。
　私服が無いのだ。
　総悟の悪戯で、ある日突然クローゼットの中が、全てメイド服に変えられていた。お屋敷に奉公するとあって、お気に入りの綺麗な服を選んで持って来たのだが、屋敷の何処を探しても見つからないまま現在に至るのだ。これでは帰るにも帰れない。
　神楽は再度、ペン型の懐中電灯を持って総悟の部屋へ忍び込んだ。
　いつぞやの悪夢が脳裏をよぎる。クローゼットの中は、後回しにした方がいい。神楽はまず始めにベッドの下をライトで照らした。
　ゲーム機が入っていた空箱の他に、大小様々な箱が詰め込んである。神楽はそのいくつかを引きずり出すと、ひとつひとつ中を確認した。大きさからして靴が入っていたと思われる黒い箱を開けると、中には液体の入ったビンや、粉の入ったフィルムケース、タブレットボトルが詰め込まれていた。不審に思い、ラベルを確認したが、神楽には判読出来ない文字だった。
　ふわり、と夜風が舞い込んだ。
　「何してやがんでィ」
　神楽は素早くライトを消し、身構えた。僅かに開いたベランダの窓越しに、黒い人影が立っている。
　「総悟……？」
　気配を全く感じなかったことに、神楽は動揺していた。
　「主人の部屋で家捜したァ、どういう了見でィ」
　「ちがっ……お、お前がいなくなったから探しに行こうとして……でも私服が無いから、此処に隠してあるんじゃないかと思って……」
　総悟は猫のようにするりと部屋に入って来た。強いアルコール臭に、神楽は思わず顔をしかめる。
　「何処行ってたんだヨ」
　「ちょいと、花見に」
　「窓から？」
　「降りる時は松の木、上る時は雨樋なんでィ」
　総悟はおぼつかない足取りでベッドに近付くと、バスン、とうつ伏せにダイブした。
　「……服、返せヨ」
　「服……？」
　「私の私服！　何処に隠したんだよ！」
　神楽はベッドに上がると、総悟の耳を引っ張った。
　「ってーなァ、あんなモン、とっくに処分したっつの……」
　「ふっざけんなヨォォォ！」
　総悟は神楽の手を払い除けると、ごろりと仰向けに寝そべった。
　「必要ねーだろィ……てめェは一生、俺のメイドなんだからな」
　「勝手に決めんな！」
　「俺の愛人として一生傍に置いてやるっつってんでィ」
　「……ハァァ！？」
　神楽は帰って来た酔っ払い相手にマトモに話が通じないことを悟った。このままでは埒があかない。バケツ一杯、冷や水を被せてやるべきか、考えあぐねていると、総悟がむっくりと起き上がった。
　「今の、プロポーズだったんだけど」
　「……ぷ……」
　神楽は心の底から呆れ果てていた。酔っぱらいの戯言には突っ込む気力も失せる。言葉にならなかった言葉は、溜め息に変わった。
　「……そーゆーコトは、シラフの時に言えヨ……」
　「酔ってねーよ」
　「酔ってるダロ！」
　「酔ってねェっつの！」
　呆れを通り越して憐れみの情にほだされた神楽が、僅かに見せた隙をつき、総悟は強引に神楽の唇を塞いだ。
　「んんっ……」
　神楽は押し返す手を止めた。日本酒「鬼嫁」の、甘口。
　（銀ちゃん……）
　目を閉じて舌を深く絡ませれば、懐かしい記憶が甦る。神楽はそのまま束の間の陶酔に身を任せた。
　怒り、焦り、不安、悲しみ。伝わって来るのは、恋心とは程遠い、やり場のない雑多な感情。
　頬をやさしく叩かれて、総悟は唇を放した。
　「……下手くそ」
　神楽が小さく呟いた。
　「返事は」
　「無理」
　はっきりとわかった。自分の居場所は、此処ではないと。
　「……私、メイド辞める……」
　総悟は何も言わなかった。神楽は自分にとって「最後の灯火」だった。心も体も空っぽになった状態で、総悟を突き動かしたのは、闇から頭をもたげた「負の衝動」。
　「……わかった」
　暗がりの中で、二人はしばし見詰め合った。総悟は神楽の頬を、両手でやさしく包んだ。滑らかな美しい肌の感触を愛おしむように撫で付け、その手でゆっくりと、細い首を握った。