今日こそ言うんだ。絶対。
　言ってやる。
　『一身上の都合で辞めさせて頂きます！』
　理由を尋ねられたら、勿論。
　『バカ総悟のセクハラにはもう耐えられません！』
　引き止めても無駄無駄無駄！

　おそらく最後になる仕事着は、フリルとレースとリボンでコテコテの黒いゴス仕様のメイド服。大きなリボンの着いたカチューシャとエプロンを装着し、神楽は鏡の前に立つと、気合いを入れて両手で頬を叩いた。
　時刻は午前６時。
　剣術の朝稽古を終え、はんぺんの散歩から帰って来た総悟が、シャワーを浴びて食卓に着くのは決まって７時。
　神楽は自室を出ると、キッチンへ向かって歩き出した。執事の山崎は先に来て朝食の仕度にかかっている筈だ。
　半月も繰り返した日常。それも今日で終わりだ。
　神楽はキッチンの前で一度深呼吸をすると、姿勢をぴりっと正し、勢いよく扉を開けた。
　「おはようございます！　山崎さん、突然ですが私……」
　言いかけて、神楽はシンクの前に山崎の姿が無いことに気付いた。ぐるり、と辺りを見回すと、山崎はゴミ袋を手にしたまま、勝手口の前で携帯電話で話し込んでいる。
　「はい、わかりました。今から向かいますんで、はい、はい……」
　完全に出鼻を挫かれた神楽は、ゴミ出しに行った山崎が戻るのを待った。キッチンの中央に置かれたテーブルの上には、サンドイッチ用の食材がてんこ盛りだ。
　「おはよう、神楽ちゃん。今日も気合い入ってるね」
　勝手口から現れた山崎はいつになく上機嫌で、神楽はつられて微笑みそうになったが、意識して唇を一文字に結んだ。
　今日こそ言うんだ、絶対。
　「おはようございます、あの、私……」
　「ごめん、今旦那様から連絡が入って、これから直ぐに迎えに行かなくちゃならないんだ。後お願いしてもいいかな」
　「……はい……」
　「お昼前には戻るから」
　山崎は身支度を整える為に颯爽と部屋を出て行った。ぽつんと一人取り残された神楽は、胸の中で燻っている火を一旦消し、渋々朝食の仕度に取りかかった。
　姉が気管支炎で入院し、父の仕事が急に多忙になったため、屋敷に残された総悟が一人で食事をするのを見るに見兼ねて、「旦那様がいない時は私達と一緒に食べよう」と提案したのは神楽だった。主人が使用人と食事をするなど常識的には有り得ないことだったが、総悟は「別にいいけど」と、無愛想な返事をした。
　だが、不意をつかれてキスをされたのが昨日、今朝は山崎も留守となれば、必然的に二人きりの朝食になってしまう。
　気まずい。
　神楽はサンドイッチを作りながら、自分の分を先に食べた。
　７時になると、桜色のＹシャツにグレーのスラックス姿の総悟が現れ、隣室のダイニングテーブルに着席した。神楽は新聞とティーセットを先に運び、無言で総悟の前に置いた。
　「山崎は何処へ行ったんだ？」
　「旦那様を迎えに」
　総悟は何か腑に落ちない表情をしていた。深夜ならともかく、父が昼間に帰宅するのは珍しい。
　「オイ」
　「何でごぜーますか」
　「お前は一緒に食べないのか？」
　「先に食べたアル。はんぺんとがんもにごはんあげないと」
　神楽はサンドイッチとサラダを運ぶと、そそくさとダイニングルームを後にした。

　庭の掃除をし、花壇に水を撒きながら、神楽は一体いつになったら銀時の元へ戻れるのか、そればかり考えていた。
　えさをたらふく食べ、庭で昼寝をしているはんぺんは、昨日総悟が念入りにブラッシングをしていたにもかかわらず、抜け始めた冬毛にまみれてもさもさだ。神楽がはんぺんの毛づくろいを始めると、がんもがすり寄って来た。総悟以外には決してなつかないこの黒猫が、獣の感で、自分がもうじきこの屋敷から去ることを察知しているのかと思うと、神楽の心は小さく痛んだ。
　姉のミツバが入院している間に、春がおとずれた庭は花盛りになっていた。
　「神楽」
　テラスの扉が開き、総悟が顔を出した。
　「何？　今忙しいんだけど」
　「父上が帰って来たら、みんなで花見に行かないか？」
　「え……でも……」
　「桜の写真を撮って、姉上に送りてェんだ」
　神楽は今朝の「決意」が、有耶無耶になってしまうことにまた頭を抱えるハメになった。
　「何だよ渋いカオしやがって。昨日のことまだ怒ってんのかィ？」
　「ハッ、別に、キスのひとつやふたつどってこと……」
　言いかけて、神楽ははたと口をつぐんだ。「それ」を辞める理由にしようと計画していたのに、簡単に挑発に乗ってしまう自分の単純さに呆れる。
　「あー……もう！」
　神楽はブラシを投げ出すと、自分で自分の頭にげんこつをお見舞いした。
　「何やってんだよ！」
　総悟に咄嗟に腕を掴まれ、神楽は身構えた。
　「放せヨ！」
　「……お前……」
　丸く見開かれた瞳が、神楽を捕える。
　「頬のキズが……無い……？」
　「あっ」
　がんもをかばって車に撥ねられた時に、側頭部をアスファルトで擦ったのだが、夜兎の驚異的な回復力で、傷など一日で治ってしまっていた。不自然さを隠すためにわざとガーゼを当てていたのに、今日に限ってはすっかり忘れていたのだ。
　「あの、く、薬……ウチには秘伝の塗り薬があって……」
　「マジかよ…こんなに綺麗に治るのか…凄ェな」
　顔をぐっと近付けられ、神楽は視線を逸らすように俯いた。
　心臓が、バクバクと大きく揺れる。
　「良かった……」
　「へっ……？」
　「キズ、一生遺ったらどーしよーかと思った」
　「そ、そ、そんなコト、お前に関係無いネ……」

　バカ総悟。バカ馬鹿バカ馬鹿バカ馬鹿！お前そんなキャラじゃねーダロ！

　「放してヨ……」
　振り解けない、手。
　毎日人知れず剣を振っているが故に出来た、剣ダコにまみれた無骨な手。
　柔らかな日射しに溢れた花盛りのパティオに二人きり、そしてこの体勢、少女マンガのお約束展開。
　総悟のもう片方の手が、神楽の肩に触れた。
　その時。
　裏庭のシャッターゲートが開く音が響いた。
　「あっ……だ、旦那様が帰って来たアル」
　神楽はするりと身を躱し、裏手に向かってダッシュした。総悟は心の中で舌打ちをして、けだるく前髪を掻き上げた。
　ゲートの手前でふと、神楽は足を止めた。山崎が運転する自家用車の後から、見なれない外車が続いて入って来たのだ。来客がある場合、山崎は必ず「誰が」「何時に来るか」を神楽に伝えるのだが、今回は何も聞かされていない。
　先に車から降りてきたのは、近藤勲だった。
　「お帰りなさいませ、旦那様」
　神楽は素早く駆け寄り、近藤に向かって頭を下げた。
　「ただいま、神楽ちゃん。客人の方の荷物を頼むよ」
　「かしこまりー！」
　回れ右、で振り返ると、丁度目の前に停車した車の後部座席の扉が僅かに開いた。神楽が外側から取っ手を引くと、中からふわりと桜の香りが漂って来た。
　「いらっしゃいま……」
　「うふふ、ただいま」
　白い蝶をあしらった、ウグイス色の着物を品良く着こなした細面の女性が、ゆっくりと姿を現わした。
　その美貌とたおやかな仕草に、神楽はついうっとりと見とれてしまう。
　「初めまして。総ちゃんからお話は聞いてるわ。あなたが神楽ちゃんね」
　「お嬢様……？」
　総悟と同じ栗色の髪、長い睫に下がり目尻の優しげな瞳。写真で見ただけではわからなかった、清流を想起させる澄んだ声色。
　「姉上！」
　神楽の背後で、総悟が叫んだ。
　「総ちゃん！」
　神楽は目を疑った。未だかつて見たこともない満面の笑顔で、総悟が走り寄って来る。ぽかんと口を開けたまま突っ立っている神楽の前で、姉と弟はまるで恋人同士のようにしっかりと抱き合った。
　「どうして……退院は来月だって……」
　「ごめんなさい。体調が良かったから、お医者さまにお願いして早めに退院させてもらったの」
　「内緒にしてたなんて、あんまりです」
　「総ちゃんをびっくりさせたかったの。悪く思わないでちょうだい」
　神楽は山崎から、二人の実の母親は総悟を産んで間もなく病死し、二人は近藤家の養子として引き取られたことを聞かされていた。年が離れていることもあり、総悟にとってミツバは姉より母親に近い存在であることも。
　「……オイ」
　神楽の背後から、不機嫌そうな男の声が響いた。振り返ると、ダークグレーのスーツに、ハンチング帽を目深に被った目つきの鋭い男が、神楽を怪訝な顔で見詰めていた。
　「なんだそのチャラチャラした服は。お前さんが総悟のお気に入りだっつーメイドか。ぼうっと突っ立ってないで、後ろのトランクからさっさと荷物を出して運びな」
　男のぶっきらぼうな口調に神楽はムッとしたが、てきぱきと鞄や紙包みを取り出し、玄関へ運んだ。
　ミツバとの抱擁を終えた総悟は、運転席から出て来た男に向き直った。
　「ようこそ、お久しぶりです、土方さん」
　総悟の顔から、笑みは消えていた。
　何故姉を送って来たのがこの男なのか、考えただけで虫酸が走る。
　「相変わらずフヌケたツラしてんな総悟」
　「なんでまた江戸に戻っていらしたんですかィ？京都で辻斬りに遭って死んじまえば良かったのに」
　「まあ、総ちゃん、そんな言い方十四郎さんに失礼よ」
　荷物の取り残しがないか戻って来た神楽は、先刻とは一転してギスギスした険悪な雰囲気が漂っていることに眉をひそめた。トランクの中を再度確認し、十四郎、と呼ばれた男に歩み寄る。
　「あのう、お鞄、お持ちします」
　「いや、これは自分で持って行く。もう下がっていいぞ」
　「かしこまりました」
　神楽は軽く会釈をして、その場を後にした。
　「おおい、みんな早く中へ入りなさい。久々に家族が揃ったんだ、ゆっくりお茶を楽しもう」
　近藤勲が玄関から大きく手を振った。総悟はミツバの右手を取り、壊れ物でも運ぶかのようにエスコートした。足の不自由なはんぺんが、千切れるくらいに尻尾を振って、玄関の前でミツバを待ち構えていた。

　山崎の指示で、神楽は食器棚の奥にある来客用のティーセットを取り出し、ダージリンのセカンドフラッシュの缶を開けた。
　「ああ、神楽ちゃん、土方さんはコーヒーなんだ。コーヒーカップを出してくれるかい」
　「わかったアル」
　山崎は手慣れた動作で豆を選び、轢き始めた。神楽はお湯をわかしながら、土方から渡された京都土産の菓子を皿に盛り付けた。
　神楽は「土方十四郎」が想像していたより若かったことに、内心驚いていた。密偵として近藤家に潜り込み、隙を見ては近藤勲宛の手紙を盗み読みしていたのだが、土方という男からの手紙は随分な達筆で、解読には難儀させられた。近藤が経営している天然理心流剣術道場の共同経営者であり、実業家としての顔も持つこの男は、近藤からの依頼を受け、京都で金策に奔走していることがわかっていた。
　「ちょっと、いいかしら」
　キッチンの入口にミツバが立っていた。神楽は反射的に直立不動の姿勢をとった。
　「あ、あのっ、私、前にお嬢様の大切なティーカップを割ってしまって、本当にごめんなさい！」
　神楽は床に頭が付きそうな程、深々と頭を下げた。
　「悪気は無かったんでしょ、もう気にしないで」
　おそるおそる顔を上げた神楽に、ミツバは聖母のような微笑みを向けた。ドＳで変態の総悟と血のつながりがあるとは到底思えない、奥ゆかしく可憐な佇まいに、神楽はすっかりのぼせ上がってしまった。
　「可哀想に、まだこんなに小さいのに奉公に出されて……辛かったでしょうね。私がいない間、お庭の手入れをきちんとしてくれてありがとう。チューリップが綺麗に咲いていて、嬉しかったわ」
　「いえ、そんな、私……」
　しどろもどろな神楽にミツバは優しく笑いかけ、桃色の和紙で包まれた小さな箱を差し出した。
　「金平糖なの。おやつに食べて」
　「あ、ありがとうございます……」
　ミツバは神楽の手を取り、そっと包みを握らせた。神楽はその時、ミツバの左手の薬指に、大きなダイヤの指輪がはまっていることに気付いた。
　「お嬢様、無理をされてはいけません。お休みになっていて下さい」
　山崎が言った。
　「ありがとう。本当に大分良くなったのだけど。そうそう、これ、十四郎さんが買って来て下さった桜の塩漬けなの。紅茶に入れたらどうかと思って。そうね……ダージリンも良いけど、スマトラティーが合うんじゃないかしら」
　ミツバは帯に挟めていた平たい包みを取り出し、テーブルの上に置いた。
　神楽は指輪を目撃した瞬間から、ミツバと土方の関係を理解した。自分にはどうでもいいことの筈だったが、何故か嫌な予感がしていた。
　ミツバが立ち去った後、スマトラティーの缶を探しながら、神楽は山崎に尋ねた。
　「お嬢様と一緒に来た男、誰アルカ？」
　「ああ、土方十四郎様ね。旦那様の道場の門下生で、免許皆伝されたんだけど、師範には付かずに経営の方をサポートしてもらってるんだ。廃刀令が出てから道場の経営がちょっと厳しくなってね」
　「なんか感じ悪いアル」
　「自分にも他人にも厳しいところがあるけど、根は優しい人だよ。旦那様はホラ、お人よしで大雑把な性格だから、過去に何度も詐欺に遇いそうになって、その度に土方さんに助けられたりして。今では親友というか、義兄弟みたいな間柄なんだ」
　「ふーん……」
　神楽はさして関心の無いフリをして、ティーポットに茶葉を移した。
　
　 血のつながりの無い者同士が家族になり、血のつながりを作っていく。遠い昔から当たり前のように繰り返されて来たことには違いないが、この世に「縁があって惹かれた者達」の定めだと考えると、胸の奥が少しだけ温かくなるような気がした。