眠り姫は王子様の口付けで目覚めた。
お伽噺で、呪いを解く鍵は大概が接吻だ。だがそれが「愛」の力と言うのは違う気がする。愛は出逢った瞬間に発生するものではなく、培うものだと僕は信じている。
暗く淀んだ闇の中から僕を引きずり出したのは、ナタリアの接吻だった。
「気がついたか」
ゆっくりと瞬きをして、この世界が夢でないことを確認した。夢ではない、と確信出来たのは、ナタリアの柔らかな唇の感触と、口の中に含まれた水が喉を通って胃の中に流れ込んでいく感覚が朧な思考をクリアにしてくれた所為だ。
「……僕は……」
声が出せる。そう、僕は夢の中で声を出して喋ろうとすると、喉が詰まって声が出ないのだ。無理に声を出すと、目覚めた後でナタリアに「お前また寝言言ってたぞ」と言われるのが常だった。
夢ではない。これは「現実」だ……
じわり、と涙が込み上げて来た。
「おいおい、せっかく補給した水分を目から流すんじゃないよ」
目尻を拭うナタリアの指と爪の感触に、声を上げて泣きたくなった。何故なら僕は、ナタリアの乗ったニューヨーク行きのエアフランス便を撃墜する夢を見ていたからだった。
全ては夢だったのだ。ナタリアは確かに此処に居る。
「なに、軽い脱水症状さ。ヒールのスペルをかけたから、大分気分は良いだろう？」
そうだ、僕は昨晩大量のアルコールを飲んだ。
ナタリアと……？
錯綜する記憶の糸はところどころが切れていて、ぐちゃぐちゃに絡まっていた。
僕は今、ナタリアの部屋のベッドで、裸で仰向けに寝ている。そしてナタリアも全裸だ。
二人で酒を飲んだ後のこの状況は、どう考えても「事後」ではないか。
「そうだ……ボルザークは？ あいつはどうなっ……」
ナタリアの人差し指が、今度は唇に触れた。
「思い出すんじゃないよ。昨夜散々ヤケ酒を呷っただろう。この件はもう、無かったことにするんだ。互いに無事だっただけでも、儲けもんだと思うんだね」
ナタリアの瞳が翳りを帯びたのを確認して、僕は今回の依頼が失敗に終わったのだと認識した。
「互いに無事だった」というフレーズに、何か違和感を感じたが、それは僕の見た夢があまりにリアル過ぎたためだと考えるのが自然だろう。
「今日はゆっくり寝てろ。何か消化のいいものを作ってやるよ」
「……ナタリアが？」
「私はね、出来ないんじゃなくて『しない』だけなんだよ、何事も」
僕は自分の頬が火照るのを感じた。
失業したら……それこそ母親ごっこしかやることが無くなるな……
あの言葉は夢だったのか、現実だったのか。覚えているのは確かだったが、今の僕にはどうでもいいことだった。ナタリアとの暗殺稼業は日々殺伐としたものだった。人を一人屠る度に、世界からは彩度が消えて行くばかりだった。だが僕は今、ナタリアの一言に有り得ないときめきというものを感じてしまったのだ。シャーレイに「ずっと君の隣にいるから」と言われたあの時の感覚だ。
「……ナタリア、その……この稼業を引退する、って言ったのは、本気で？」
前髪を掴むように掻き揚げて、盛大な溜め息を吐いた後、ナタリアは「どうだかね。まだ考え中だよ」とくたびれたようにこぼした。
一人になると、考えることは山積みだった。
ナタリアの口調から察するに、ボルザークの死体を回収することは失敗したのだろう。おそらく飛行機から脱出するのが精一杯だったに違いない。大量の屍徒を乗せた飛行機は……ここからは選択肢が発生するが、ナタリアが脱出した後機体ごと爆破したか、屍食鬼がエアポートに流れ込み、地獄絵図と化したか。
いずれにせよ、魔術協会か聖堂教会が駆けつける事態になったに違いない。
ナタリアが旅客機の中でボルザークを殺さなければ、このような悲惨な結果になることはなかった。運良く死体が回収出来たとしても、報奨金を貰うどころではない。それどころか、一般人を巻き込み、多数の犠牲者を出したナタリアは、お尋ね者としての烙印を押されているかもしれない。
「生きて帰れただけでも儲けもの、か……」
納得はいかなかった。
夢の中の僕は、ナタリアの乗った飛行機を躊躇なく撃墜した。本当はそれが最善の策だったのではないだろうか。だが僕はそれをしなかった。ナタリアが生きて此処にいることが何よりの証拠だ。そして僕達は何とかアジトに戻り、記憶が無くなるまで飲み明かし、その勢いでセックスをした……
こめかみの辺りがじくじくと痛む。
僕がナタリアを女性として意識するようになっていたのは確かだ。セックスをしようと試みたこともある。だが、ナタリアは僕が相手では濡れなかった筈だ。
思い出せない。
ワインと、ウイスキーと、ウォッカを飲んだことはかろうじて覚えているが、その後の記憶が全く無い。思い出せないということは、こんなに気持ちの悪いものなのか。記憶が戻るまで、壁に頭をひたすら打ち付けたいとさえ思う。頭が割れれば、記憶がぽろり、と落ちてくるかもしれない。
僕はどうやってナタリアを抱いたのだろう。泥酔状態のナタリアを、無理矢理犯したのだろうか。
本気で壁に頭突きがしたい気分だった。だが今はトイレに行くことが先決だ。生理現象は全くもって面倒くさい。僕は勃起していた。
バスルームでシャワーを浴びようとして、ずぶ濡れの衣服が無造作に籠に入れられているのに気付いた。僕が昨夜着ていたらしき、Ｔシャツと、ジーンズと、下着と靴下だ。何故ずぶ濡れなのかよくよく調べると、Ｔシャツからはアルコールと胃液の匂いがした。どうやら僕は嘔吐するほど飲んだらしい。そして服の汚れを落とそうとして、服を着たままシャワーを浴びたというわけか。酒で憂さを晴らそうとした挙げ句が何てザマだ。急性アルコール中毒で死のうとでもしたのだろうか。
ナタリアの回復呪文は元々威力が弱い。癒しよりも攻撃に特化した起源を持つのだから仕方ない。軽く船酔いをしている気分のまま、僕はシャワーを浴びて、自室でＴシャツと短パンを身に付け、再びナタリアの部屋へ戻った。僕の部屋のベッドより遥かに寝心地の良いこのベッドで、一日寝ていいとナタリアが許可したのだ。開き直った僕は、その言葉に甘えることにした。
布団の中に潜り、大きな繭になってみた。無様としか言いようのない自分の存在を消してしまいたかった。
海は本当に深い場所だと黒い。アリマゴ島で見た黒い海は、深い闇そのものだった。泥のような闇から抜け出せたというのに、羞恥のあまり、再び闇の中に沈みたいと願ってしまう矛盾。
嗚呼本当に馬鹿げている。
「切嗣」
部屋の隅にある扉が静かに開いた。黒いワンピースを纏ったナタリアが、スープらしき物を乗せたトレイを持って入って来た。
この家の間取りは機能的ではない。万が一何者かに侵入された際、武装する時間を稼ぐため、ナタリアの部屋はリビング兼仕事部屋のある場所からぐるりと回らなければ辿り着けない。唯一、キッチンから直通出来る扉があるのだが、内側からのみ鍵がかかるようになっている。
バターの香りがふわりと漂う。
ナタリアはトレイをサイドテーブルに置くと、スープの入った器を持って僕の隣に座った。
「とにかく、食べられるだけ食べるんだ」
僕は布団から出てバックボードに寄りかかるように座った。器の中身はジャガイモをすり潰したスープに、ニョッキとコーンを混ぜた粥だった。
「ほら、あーん」
思いきり湯気の立っているスプーンを突きつけられて、僕は再び赤面した。
「……ひとりで食べられるよ……」
「母親みたいだろ？」
ナタリアが悪戯っぽく笑う。
「……やっぱり、らしくない」
性行為をした上での母親ごっこなら、近親相姦の設定になる。
「ふん、つまらん」
ナタリアは口を尖らせ、スプーンを突っ込んだ器を僕に手渡した。ほんの少し中身をすくって、ふう、と息をかけて冷ましてから、ゆっくり口へ運ぶ。
「美味いか？」
「……素材の味が生かされてる」
ナタリアのことだ。味見はしていないと確信出来る。しかし決して不味くはない。塩がもう少し入っていればの話だが。とりあえず、冷えた体を芯から温めるのに最適なことだけは確かだ。
「やさしい味だよ」
二口、三口と食べ始めた僕を見て、ナタリアはサイドテーブルに置いていた煙草に火を付けた。アリマゴ島にいた頃、熱を出した友達の家に見舞いに行ったら、母親が産まれて間もない赤ん坊に乳を吸わせながら、ベッドで寝ている友達に芋粥を食べさせていた。母親の記憶が無い僕にとって、それは不思議でもあり、羨ましい光景だった。
「……潮時、なんだろうな」
ぽつり、と呟かれた言葉に、僕はスプーンを持つ手を止めた。
「暗殺稼業からは足を洗うよ」
ナタリアは煙草をもみ消すと、僕の隣にごろり、と横になった。
宵越しの金は残さない主義のナタリアだが、武器を仕入れるための貯金がいくらかあることは知っていた。それでも、この稼業を辞めれば収入は無くなる。
「辞めたら、どうするの……？」
「私は辞める、って言ったんだ。お前はどうする？」
頭の中が真っ白になった。
二人で仕事をこなすことが当たり前になっていた。僕はあくまでサポート役で、メインのターゲットはナタリアの担当だった。だが、身長がナタリアを越えた今では、死体を回収し、運ぶ作業は僕の方が手際良く出来るようになっていた。
「……切嗣、今すぐに答えを出す必要は無い。心身共に弱ってる今、正しい判断、てのは難しいもんだ。今お前がすべきことは、私が作ったお粥を全部たいらげること、今はそれでいい」
僕は任務を遂行した。何も考えず、機械的に粥をすくっては口へ運ぶ作業を繰り返した。
食べ終わると、ナタリアは食器を片付け、薄めたコーヒーを持ってきてくれた。血糖値が上がるように、砂糖を入れて。
考えるなと言われても、土台無理な話だった。「魔術師殺し」として育てられた僕に、人を殺す意外の生き方など、選択出来る筈は無かった。
「……ナタリア……」
ナタリアは至極自然な動作で僕の手からコーヒーカップを取り上げた。
「睡眠……薬……入れたん……」
「食べたら眠る、その方が早く回復する」
「夢の……せ かいに……戻り く……な……」
「安心しろ。夢なんか見ないで眠れるさ。ハルシオンを入れておいたからな」
瞼が重くなっていく。
ぐらり、と頭が揺れた。世界が強制終了する瞬間、抱きとめてくれたナタリアの肌が妙に冷たかっ た こと
新しい朝。
僕は普通の食事が摂れるようになって初めて、ナタリアから「かなり深刻な脱水症状」だったことを聞かされた。
ナタリアは、それこそ魔法を使ったのかと疑うほど、美味しい手料理を作ってくれた。
「出来るけどしないだけ」と言うのは本当だった。僕は手作りのピエロギを味わいながら、ナタリアの決意は揺るぎないものだと確信し、複雑な気持ちになった。
部屋の何処を探しても、新聞は見つからなかった。例の事件の顛末は、僕の精神状態を悪化させるに必至な内容だったのだろう。ナタリアの気遣いを感じたからこそ、僕は今考えて、決断しなければならなかった。
食後のコーヒーをひと口飲み、僕は自然に切り出した。
「この間の話だけど」
まとめた食器を片付けようとしていたナタリアは、その手を止めて、椅子に座り直した。
「僕はこの稼業を続けるよ。考える余地なんて無い。僕に『魔術師殺し』以外の選択肢なんて、元から無いんだ」
「そうか……」
「それに僕が働かなかったら、ナタリアを養えないからね」
「なんだい、その言い方」
ナタリアは頬杖をついて、くつくつと笑った。
「あまり難易度の高い依頼はこなせないけど、それも慣れていけばいずれは何とか出来ると思う。後はあんたが今までのような金遣いをしなければ、やっていける筈だ」
「そうかい。じゃあ私は節約に努めるかね」
それなりに面白おかしいもんだったよ、何て言うか、家族……みたいな
僕は唐突に思い出した。
「家族」。ナタリアは確かにそう言った。僕を、家族だと言ってくれた。僕は何と返したのだろう？ 記憶には無いが、答えるとしたら「僕もあんたを家族だと思っている」だ。
居候で、弟子で、家族。
還る場所があること、自分の存在が許される場所があること、当たり前のようなことが、沁みるように嬉しかった。
心細いなどと考えては駄目だ。僕は一人前の魔術師殺しになるべきなのだから。
「切嗣、体調が良いなら街へ食材の買い出しに行ってくれるか？」
「構わないよ、買い物のリストを作ってくれれば。体もなまっているし、少し外を歩いて来るよ」
ナタリアが僕に買い物を頼むということは、予想した通り、ナタリアがお尋ね者として協会から手配書が回っている所為なのだと察した。家の周りに施した結界の術式も、より複雑なものに変えておく必要があるだろう。
コーヒーを半分以上飲み干して席を立つと、ナタリアが近付いて来た。首の後ろに両腕をまわされたので、僕は腰に手をまわし、何も言わず唇を重ねた。緩く舌を絡め、甘ったるいキスを交わした。
スウェットを着込んで外へ出ると、冷たい空気が肌に沁みた。それでも日差しは春の訪れを感じさせるものだった。僕は森の中を歩き、射撃場で銃のメンテナンスをすると、試し打ちを繰り返した。感覚は衰えていない。それが何より僕を安堵させた。
家に戻ってから、ナタリアに頼まれたものを買いに街へ出掛けた。リストを見て、一体何日分の食料なのかと首をひねった。どうやらナタリアはパンも手作りする気でいるらしい。イースト菌が何処で売っているのかわからず、パン屋で尋ねる羽目になった。
今まで食事は缶詰か外食だった。ナタリアは酒のつまみに生ハムとチーズを切る程度のことしかしなかった。アリマゴ島では魚が中心の食生活だったが、此処では新鮮な魚は手に入らず、それでも一度魚の煮付けを作って振る舞ったのだが、「生臭い」と不評だった上、魚をさばいたまな板から匂いが取れず、ナタリアが酷く不機嫌だったことを思い出す。臭み消しの香草が足りなかった所為だと思うのだが、そういえば買い物リストの中に香草も入っていた。
パセリ、ローズマリー、マジョラム、クミンシード。頭の中にサイモン&ガーファンクルの「Scarborough Fair」が流れる。
Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme
Remember me to one who lives there
For once she was a true love of mine
もの寂しい曲だったが、僕は好きだった。
オートマティック車の運転は、銃の分解と組み立てを覚えるより遥かに楽だったが、子供だった僕はいかんせん足の長さと座高が足りず、外を運転すればすぐに捕まることが明らかだったため、買い物はいつもナタリア一人か、服を買う用がある時だけ二人で出掛けた。早く身長が伸びればいいと常に思っていたが、伸び始めたら今度はジーンズを買い替える頻度が高くなり、それはそれでナタリアに文句を言われた。仕事に支障をきたす可能性があるため、服は常に身の丈に合ったものを着ること、それはナタリアの計らいだった。
「おかえり」
山程買った食料は、此処へ来た頃の僕一人分くらいの重量だった。
食料をキッチンまで運びながら、何だかパーティーが始まるような気がして落ち着かなかった。しいて言うならば、「魔術師殺し・衛宮切嗣」の独立記念日といったところか。
僕はコーヒーを飲みながら、久々の煙草を味わって吸った。
キッチンから、ナタリアの鼻歌が聴こえて来る。Scarborough Fairだった。僕は笑いをこらえながら、「何か手伝おうか」と声をかけた。
「ハーブだったら庭を作れば栽培出来るな……切嗣、次は野菜の種と苗を頼む」
料理だけでなく、畑まで作る気でいるナタリアに、僕はぽかんと口を開けたまま返す言葉を失っていた。
僕が仕事をし、ナタリアが家を守る。
簡単なことだった。世間ではそれを「夫婦」と言う。
「料理は何処で覚えたの？」
僕はステーキのタルタルソースをポテトパンに付けて頬張った。
「何処だったか忘れたよ……しかし面倒くさいもんだな。十数分で食べられる物に何時間もかけてさ。くたびれるったらありゃしない」
「美味しいよ、すごく」
「愛なんて込めた覚えはないけどな」
照れ隠しの皮肉か。何にせよ、美味しいものは美味しい。プロの料理人が、客に対して愛情を込めて作っているのかわからない料理より、遥かに美味かった。
「おい、早食いするんじゃないよ、もっと味わって食べな」
僕の早食いは「癖」だった。人を殺した後は、当然のように食欲が失せる。それでも食べなければ体力がもたない。故に無理矢理掻き込んで食べ、吐くのを我慢するうちに身に付いてしまった癖だ。
ナタリアは３杯目のワインを飲みながら、小さく契ったポテトパンを口に入れた。
「……僕も少しだけ、飲んでもいいかな」
「止めておいた方がいいんじゃないか。この料理、吐いたら殺すぞ」
食後の後片付けは僕がかって出た。ついでに無造作に食品が詰め込まれた冷蔵庫の整理もした。お湯をわかすためにしか使っていなかった埃だらけのガス台は、綺麗に掃除されていて、思わず目を見張った。
ナタリアの手料理が食べられる、幸福な毎日。だがこの暮らしは、何百人もの屍の上に成り立っている背徳（こと）を、僕は嫌でも「考えて」しまう。躊躇無く実の父親を殺した僕が、母親代わりの女性を殺せなかったのは、何故か。
何かが、おかしい。
僕はキッチン側からナタリアの部屋の扉をノックした。返事は無かったが、鍵は開いていた。
「入るよ」
ナタリアは部屋の真ん中に置かれたソファに座り、テーブルにはウイスキーのボトルと、氷の入ったグラスが置かれていた。項垂れたその姿はどことなく虚ろで、幽鬼的に見えた。
「……隣に座ってもいいかな」
やはり返事は無い。眠りこけているのかと思ったが、ナタリアは緩慢な動作で体を横にずらした。
「飲み過ぎたんじゃない？」
「いつもこんなもんさ……」
僕はナタリアの隣に静かに腰を下ろした。
「……ひとつ、訊きたいことがあるんだ」
ナタリアは黙って、煙草に火を付けた。
「僕に催眠術を使ったね？」
ナタリアは無言で煙草を吸い続けた。灰が落ちる寸前でそれを揉み消して、ウイスキーをグラスに注ぐ。
「お前のためにしたことだよ」
「……わかってる」
「だったらいちいち訊くな。文句を言いたいなら出て行け」
掠れてはいたが、凄みのある声色だった。
「違うよ」
僕はグラスへ手を伸ばし、ウイスキーをひと口飲んだ。
「僕は酒に酔った勢いで女性を抱いたりしない。記憶が無くても、それは確信出来る。
目が覚めた時、あんたは裸だったけど、僕は腰にバスタオルを巻いていたんだ。行為に及んだ後に、わざわざバスタオルを巻き直すなんて、おかしいじゃないか」
うつむいていたナタリアが、初めて顔を上げて僕を見た。
「……何が言いたいんだ？」
「抱かせて欲しい」
僕の告白は思いがけないことだったのだろう。ナタリアは僅かに目を開き、瞬きをした。
断られることを前提に投げた直球だったが、ナタリアはふらりと立ち上がると、羽織っていたカーディガンをするりと脱ぎ捨てた。
僕はゆっくりと立ち上がり、背後からナタリアを抱き締めた。
「……忘れさせて、くれるのか……」
聞いたこともない弱々しい声で、ナタリアが呟いた。
昔「好きだった」男の話など、どうでもいいと思った僕は間違っていた。僕はナタリアの過去も含めて、全てを受け止めるべきだったのだ。
母親役を演じていたナタリアの仮面を剥がし、一人の女性としての、真の姿を。
唾液が溢れるほどのキスを交わし、ベッドになだれ込んだ僕達は、互いの着衣を床に投げ捨て、体を弄り合いながら、深いキスを繰り返した。
ペニスを扱こうとするナタリアの手を制して、僕はナタリアを背後から抱くと、手のひらに収まらない程の豊満な乳房を愛撫し、膣口へ指を忍ばせた。
「ん……っ」
陰核を指で刺激すると、ぬるりとした愛液の感触があった。
「愛してる、ナタリア」
熱っぽく耳元で囁くと、ナタリアはぴくりと体を震わせた。耳の中に下を挿れてやると、艶めいた喘ぎが室内にこだました。僕は淫らな音が溢れるまで、膣口へ指の抜き差しを繰り返した。
僕達はもう師弟でも親子でもない。
背徳の上に背徳を重ねることに、躊躇いは無かった。
「あっ、あっ、……はぁっ……」
四つん這いにさせたナタリアを、後ろから突き上げる度、恍惚に溺れていく。膣内がびくびくと動き、ナタリアが本気で感じているのが分かった。ペニスを奥まで挿入したまま腰を振ると、ナタリアが嬌声を上げた。
「ん、くっ……！」
射精すると同時に、全身から汗が噴き出した。
僕は「境界」を越えてしまった。壊した、と言った方が正しいだろうか。
ぐったりと枕に突っ伏していたナタリアが、振り返って僕を見た。汗で濡れた髪と、唾液で濡れた唇。サキュバスの淫靡な微笑みは、魅了（チャーム）の魔術だった。
「Trick or treat」と、悪魔が呟いた。
ナタリアは香水を付けず、衣服には煙草の匂いが染み込んでいたが、素肌からは花のような甘い香りがした。同じボディシャンプーを使っているのに、僕の体臭とは明らかに違う。独立記念日をホテルで祝ったあの日、気付いたことだ。
ナタリアは吐精して尚勃起したままのペニスを口に含むと、愛液と精液を丁寧に舐め取った。そして勃起状態が持続するように、ドレッサーにあったヘアゴムで僕のペニスを縛った。
それから僕達は、交互に上になり、下になり、夜が明けるまで交わった。回を重ねる毎にナタリアは大胆になり、もっと、もっと、と強請られた。僕が何度も「愛してる」と囁いたにも関わらず、ナタリアは同じ言葉を返してくれなかった。それがもどかしくて、敏感な部分を攻め立てれば、ナタリアはとろけるような甘い声で歓喜した。
「……いやらしいね、ナタリア」
「……いやらしい？……お前が私のこと、時々いやらしい目で見てたこと、気付いて無いとでも思ったのかい……？」
艶っぽい溜め息をこぼして、ナタリアは嘲笑った。
「お前が、望んだことだろう……？」
僕は何か重大なことを忘れていた。だが思い出すことが出来ないのなら、忘れてしまいたいと願った。
この先僕は、愛欲と血に濡れた人生を歩んでいくのだろう。果たして其処に、希望は存在するのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
僕は既に、サキュバスの虜になっていた。
To be continued “Once in a While, Talk of the Old Days”