ナタリアの機嫌が足音で分かるようになってから、大分経つ。
黄昏時といっても、窓の小さな石造りのこの家は、朝から晩まで薄暗い。
十五を過ぎた頃から急激に身長が伸び始め、声変わりを果たした僕に、ナタリアは部屋を用意してくれた。部屋といっても、実際は物置と化した埃だらけの空間で、ナタリアは其処に外国のブランドショップで買ったドレスやコート、バッグや靴や帽子を箱詰め袋詰めにしたまま放置していた。山積みになった物をきちんと整頓してみると、空間の半分が空いた。簡素なベッドと、小さな机と、縦に長い本棚を置いてみると、それなりに部屋らしくなった。
宵越しの金は残さない主義のナタリアは、報奨金を手にする度に街へ繰り出し、高い酒や食材と、身を飾る様々なアイテムを「手に入れる」ことで満足していた。仕事に関する計画は綿密で、多少なりとも危ない橋を渡る場合は、万が一の防御策や回避法を何通りも用意する程完璧主義である癖に、経済観念はまるで無く、「今を楽しまなくてどうする」と、男気溢れる豪快な生き様を僕に見せつけた。
僕の部屋には扉が無く、廊下とは厚手のカーテンで仕切られているだけに、ナタリアが今、隣の部屋で何やら探しながら歩き回っている足音は丸聞こえだった。
バン、と扉が開くと同時に、バタバタと荒い靴音が近づいて来た。
「切嗣、ちょっと」
僕はベレッタのフレームを分解していた手を止め、マガジンキャッチスプリングを無くさないように、そうっと紙切れの上に置いた。
「何？」と言いかけて、乱暴に開けられたカーテンへ目を向けた僕は、そのまま１８０度ぐるりと身を捩った。
「ドレスが見つからないんだ。一緒に探してくれ」
仏頂面のナタリアはほぼ裸に近いセクシュアルな下着姿で。
「ど、どんなドレスかな……僕にはよく分からないけど」
実際、ナタリアが所有するドレスは殆どが黒で、胸元や背中が広く空いたデザインのものばかりだ。正直僕には見分けがつかない。
「イタリアで買ったやつだよ……ええと……何のブランドだったか忘れたが、スワロフスキーのクリスタルを散りばめた割と派手なやつだ。色は黒」
部屋の隅に置かれたメタルハンガーには、黒いロングドレスとコートがずらりと吊り下げられていた。ナタリアは埃除けのビニールを剥ぐと、一枚を一秒で確認していく。
「どこか、出掛けるの？」
ナタリアを正視しないように、僕はまだ未開封の衣類の入った紙袋を開け始めた。
「ホテルで食事。ついでに部屋もとった」
「そう…」
この家に転がり込んだ僕はナタリアにとって「居候」に他ならず、最初のうちは当然のようにハウスキープ全般を命じられた。洗濯をしようとして、ナタリアの下着を目にした時、衝撃を受けなかったと言えば嘘になる。それは性的興奮を覚えるというより、隠す為に着ける下着に何故に豪奢な刺繍や飾りが施されているのか、透けているのか、紐なのか、というデザインそのものに対する疑問で頭が一杯だったという方が正しい（後で知ったことだが、僕が紐だと思っていたものは「ガーターベルト」といい、ストッキングを吊るすためのベルトのことだった）。
「見えない所に気を遣うのがお洒落なんだよ」と、ナタリアは鼻で笑った。
そういえば日本でも、江戸時代の男の着物は、外見は地味だが、羽裏に派手な文様の生地を仕込むのが「粋」とされていたと聞いたことがある。
お洒落とはつまり粋なのだと、勝手に解釈して下着を洗濯機に放り込んだら、「下着は手洗いだよ」と拳骨を食らった。
つまり僕はナタリアの下着をずっと手洗いさせられていた訳であり、女性の下着そのものに対する感覚はとうに麻痺している。
だが、それが装着されているとなると、話は別だ。
下着は「隠すため」のものではなく、「魅せる」ためのものであると知った今は、男として性欲が掻き立てられるのは必然だ。それが「母親代わり」の女性であるにしても、ナタリアは若すぎるし、プロポーションもモデル並みだ。
早くドレスが見つかってくれれば。
「無い……無い……、切嗣、もたもたしないで袋を破いて探せ」
もう自分でも何を探しているのかわからない。クリスタルの派手なドレスとは一体何なのか。どれもこれも同じ、黒いドレスばかりだ。それより破いた袋を後で片付けさせられることを思うと、派手に溜め息を吐きたくなる。
「ねえ、急いでるの？ 誰かと待ち合わせ……とか」
「お前の服を選ぶ時間が無くなる」
「……どういうこと？」
「エスコートしろって言ってるんだ。ホテルはドレスコードが鉄則だから、お前もスーツじゃなきゃ入れないんだよ」
「それはどういう気紛れ？」
「お前な、４年も一緒に暮らしてて、私が気紛れな女だって事くらいわかってるだろ！」
顔を上げたら、目の前にサキュバスが居た。
お目当てのドレスは結局見つからなかった。
ナタリアは胸元がＶ字型に空いた黒いドレスを着て、毛皮のコートを羽織った。ダイヤのネックレスとピアスを付け、綺麗に梳いた髪には黒い薔薇のバレッタを留めた。
ナタリアがドレスアップして出掛けて行くのを初めて目にした訳ではないのに、エスコート役が自分となると、胸の高鳴りを抑えきれなかった。と同時に、誰がどう見たって不釣り合いにしか見えない、ロシア系美女と冴えない東洋人2人組に、一般人の注目が集まることを考えると、憂鬱になった。
この国は他民族国家だが、さすがに東洋人は珍しい。暗殺を生業としているだけに、人から見られること程ストレスを感じることは無いと言っていいだろう。
ナタリアは臆することなく、高級紳士服店に僕を連れて入った。
「弟の服を。私の装いに合うように見繕ってもらいたいんだ」
人種が違うのに、弟は不自然じゃないか。そう思ったが、僕はもうさすがに子供には見えないし、だからといって恋人と呼ぶには幼かった。
弟、か。
店員が僕の肩幅や胸囲を計り、次から次へとスーツや、それに合うYシャツ、ネクタイをコーディネートし、机に並べた。若い男の店員が、それとなくナタリアの胸元を盗み見ているのが、何だかとても不愉快だった。
僕は終始「ああ」とか「そうだね」と相槌を打ち、結局店員とナタリアが選んだスーツを着せられ、代わりに脱いだ服を紙袋に入れて渡された。
ダークグレーのスーツに、黒いYシャツ、シルバーのネクタイ。悪くはなかったが、似合ってもいなかった。
服が大人びている分、自分の幼さが逆に際立つ気がして、ナタリアと連れ立って歩くのが増々恥ずかしくなった。こんなことなら「富豪の令嬢と使用人（又は運転手）」の設定の方が、まだマシだ。
ナタリアが予約を入れたホテルは、宮殿と言っても過言ではない、クラシックで格調高い佇まいだった。
車を駐車場に入れ、ナタリアがチェックインの手続きをしている間、僕はロビーで体が沈みそうになる程柔らかなソファに座り、煙草をふかしていた。やがてポーターが現れ、案内された部屋は、プレステージスウィートだった。
「ごゆっくりどうぞ」
ポーターはソファに荷物を置くと、鍵を置いて出て行った。
「凄い部屋だね」
二人きりになったことで安堵した僕は、部屋の中をぐるぐると見渡した。カーテン、ソファ、絨毯、どれも凝った柄の刺繍が施され、頭上には虹色に光るシャンデリアが吊られ、壁には前衛的な抽象画が飾られていた。
ある筈が無いとわかっていても、無意識的に監視カメラを探してしまうのは、この稼業の性なのだろう。
「食事はどうするの？」
「時間になったら此処に運んでくれるようにしてある。その方がお前も気楽だろ」
微かに笑って、ナタリアは煙草に火を着けた。
僕は脱いだジャケットをソファに放ると、窓から夜景を見ながら一服した。ふと思い立ってバスルームを覗き、寝室を見て、絶句した。
「ナタリア」
「何だい、坊や」
「……ベッドがダブルなんだけど」
「それがどうかしたか？」
「あ……いや、別に……」
平静を装うことにした。
ナタリアの「気紛れ」に翻弄されるだけの自分が「欲望」を抱く事は、意味のない事なのだ。ソファだって、絨毯だって、僕の部屋のベッドよりは余程寝心地がいいだろう。
スーツで食べる食事は、決して気楽なものではなかった。
食前酒にノンアルコールのシャンパンで乾杯をし、フレンチのフルコースがスタートした。
「ナイフとフォークは外側に置いてある方から順に使うんだ」
僕はナタリアに習って、差し出される皿の上の食材を機械的に咀嚼し、胃の中へ流し込んだ。数分、いや十数分で平らげることが出来る料理に、一体どれだけの手間をかけているのか。感服するというよりは、その労力を思うとシェフには悪いが、こんなことに一日中時間を費やしている生活に、自分は耐えられないと思う。
「どうだい、初めてのフレンチの感想は」
「美味しい……と、思うよ」
「お前は嘘が下手だな」
ナタリアはそう言って、グラスワインを飲み干した。
「緊張してるだけだよ。慣れないからさ」
フルコースには世界三大珍味を使ったメニューが組み込まれていたが、美味しいのかそうでないのか、全くわからなかった。
「どうして……僕を連れて来る気になったの？」
「私とのデートに、何か不満でもあるのか」
「そうじゃなくて……ナタリアは……楽しくないだろうって」
思わず、本音が出た。
「何でそう余計なことを考える。楽しくないと思ったら、楽しくなることを探すさ」
「ごめん。つまらないことを言って」
デザートが運ばれるまでの沈黙が、ことのほか長く感じられた。
「いつ死んでもおかしくない日常だろ。今を楽しまないでどうする」
酒の入ったナタリアは饒舌になる。
この時僕は、自分は試されているのかもしれないと、淡い期待を抱き始めていた。
楽しまないでどうする
初めて出逢った時、大きく見えた背中が、今では小さく見えること。
僕は弟子として、ナタリアの背中を追って来た。ただひたすらに、がむしゃらに。
その背中に触れることが出来たら。
いつか並んで歩くことが出来たら。
そう願って来た。
お前は嘘が下手だな
嘘だった。
僕は、ナタリアを抱きしめたいのだと、気付いた。
食事が終わると、ナタリアは鞄の中の現金をハンドバッグへ移し始めた。
「どこへ行くの？」
「カジノだよ。ホテルの中にあるのさ。お前も来るかい？」
「いや……僕は、止めておくよ」
「そういやお前は未成年だったな。それじゃホテルの中を探検でもしてくればいい。図書室やプールもあるからな、適当に楽しめ」
「鍵はどうしたらいい？」
「２時間は戻らないから、お前に渡しておく」
ナタリアはドレッサーの前で口紅を塗り直し、コートを羽織ると膨らんだバッグを手に颯爽と部屋を出て行った。
ナタリアは此処へ来るのが初めてではないのだ。以前は誰と来たのだろう。選択肢は二つしかない。一人か、男と一緒か。
４年近く一緒に暮らしていて、ナタリアが暇を持て余した時、着飾って街へ出て行くことは何度かあった。酒か賭博かどちらかだろうと思っていたが、首筋や胸元に痣を残して帰って来た時、男と寝て来たのだと気付いた。
ナタリアを女として意識し始めたのは、その頃だったように思う。
僕は今の暮らしが破綻することを怖れ、「境界」を越えることを躊躇っていた。
ナタリアと僕の年齢の差は、どうしたって埋めようもない。
だが、もしもこの二人きりの暮らしがこの先も、ずっと、続くのだとしたら、僕はどこかでその「境界」を壊してしまうのだろう。
外を歩く気などはなから無かった僕は、部屋の中で一人の時間を潰した。窓からの眺望を眺めるだけで、１時間は楽に過ごせた。その場で瞬く光と、移動する光の海。光があるだけ、其処には人が居る。笑って、泣いて、愛し合って、憎み合って、殺し合っている人々がいる。
僕はバスタブにお湯を溜めると、洗面台の上に並べられた入浴剤のボトルを手に取った。数種類あるうちの中から、香りを確かめて、ムスクの粉を入れてみた。
何をしても落ち着かないことに変わりはなかったが、温かい湯に浸かっている間は少しだけ気がほぐれた。
生まれて初めてバスローブを着てみたが、笑えるくらい似合っていなかった。脱いだ服は皺が付かないようにハンガーにかけ、クローゼットの中に吊るす。ナタリアは多分、２時間じゃ戻って来ない。テレビでも見ようかと思ったら、それはダブルベッドの真正面のテーブルに配置されていた。
もうどうにでもなれ。
僕はダブルベッドへダイブした。柔らかな布団に沈む感覚が心地よい。布団を剥いで、スプリングの弾み具合を試してみる。立った状態からジャンプして、尻を落とせば、面白いくらいに体が浮いた。何度か試した後で、自分のやっていることが子供と同じだと気付き、恥ずかしくなった。
テレビを付け、チャンネルを国営放送に合わせる。首都近郊の風景は随分賑やかだ。祭りでも開催されているのだろうか。
結局、ナタリアが部屋へ戻って来たのは日付が変わる３０分前だった。
これだけ広い部屋だというのに、ナタリアが部屋に入った途端、強烈な煙草とアルコール臭が辺りに漂った。
「随分飲んだみたいだけど？」
「まあな。タダ酒ならいくらでも飲める」
「カジノは？ 勝ったの？」
「面白いくらいメダルが出てたのに、途中で邪魔が入って結局、大した儲けにはならなかった」
「邪魔って？」
「ああもう、尋問はそれくらいにしておくれ。こっちは早くシャワーを浴びたいんだ。髪の毛がヤニ臭いったらありゃしない」
そう言うと、ナタリアはコートを脱いで、バッグと一緒にソファに放り投げた。
「切嗣、後ろ」
「……？」
「ネックレスと、ドレスのジッパーホック、外す！」
「ああ、ごめん、気付かなくて」
僕はおぼつかない手つきで、言われた通りに留め金を外した。ついでに、ドレスのジッパーも、下ろす。少し汗ばんだ、白い肌が露わになる。
ナタリアはするりとドレスを脱ぐと、ハイヒールを蹴飛ばし、下着姿のままバスルームへ入って行った。やはり僕はナタリアにとって下僕でしかないらしい。
振り回されるのは馴れきっている。それでも、僕はいささか苛立っていた。ふてくされた体を装って、ベッドに寝転がり、テレビを見ながらナタリアが出て来るのを待った。
こうなったら、「お前は向こう」と言われようが、ここで寝た振りを続けてやる。最悪蹴り飛ばされる可能性はあるが、酔っぱらい相手なら、組み敷いてやる。
そう覚悟を決めた。
「ああ、やっと落ち着いた」
バスルームから出て来たナタリアは、清々しい表情で、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをコップに注ぐと、一気に飲み干した。
「お前も飲むか？」
「……いらない」
黙って薄目で見ていると、ナタリアはフロントに電話をかけ、ルームサービスで何やら軽食を注文していた。夜型生活の僕らにとって、６時のディナーは早かった。
「小腹が空いたんじゃないか？こっちへ来な。夜食を注文したぞ」
僕はナタリアの呼びかけを無視して、ベッドの上で寝た振りをした。つくづく、妙な所で母親っぽい素振りを見せるのが憎らしい。
「らしくないな。どうした坊や、何を拗ねてるんだ？」
ゴツ、と固いものが額に触れた。
目を開けると、ディナーの時に注文したボトルワインの飲み残しを手にしたナタリアが立っていた。
「ほら、グラス」
「……まだ飲むの？」
僕が渋々起き上がると同時に、ナタリアはベッドに腰を下ろし、サイドテーブルに置いたグラスにワインを注いだ。
「今日は特別だ」
ナタリアは薄く笑って、僕のグラスにもワインを半分ほど注いだ。
「独立記念日に、乾杯！」
「えっ……？」
リィン、と涼やかな音が響く。
「今日が？ 独立記念日？」
「０時を過ぎたからな。時間的には今日だ。それとついでに」
ナタリアは言葉を切ると、クッと小さく喉を鳴らしてワインを飲み込んだ。
「誕生日おめでとう、坊や」
「……あ」
すっかり忘れていた。
部屋のチャイムが鳴り、ナタリアはルームサービスを取りに向かった。届けられたプレートには、ケーキではなく、ピエロギとゆで卵のサラダ、生ハムとピクルスのサンドイッチが盛られていた。ナタリアはそれをベッドの上に置き、再び僕の隣に座った。
「私は生憎甘いものは苦手だからな。ケーキは勘弁しておくれ」
「……覚えてて、くれたんだ……誕生日」
「独立記念日と一緒じゃ忘れようもないだろ」
つまりこれは、ナタリアの気紛れでも何でも無くて。
「……ありがとう」
「別に……ついで、だからな」
うつむいたナタリアの顔が、こころなしか赤いような気がする。
僕はワインを口に含んだ。苦みと酸味が、舌に沁みた。
美味しいものだと思えないのは、自分がまだ子供だからか。
「飲み比べをしたんだよ」
「え？」
「カジノでナンパされて、一緒にラウンジで飲んだのさ」
気がつくと、会話は先ほどの「尋問」へ巻き戻されていた。
「私が負けたら、相手の男の部屋に行くって条件でね」
「……」
ナタリアはグラスのワインを一息に飲み干すと、残りを注ぎ足した。
「……寝たの？ そいつと」
ナタリアは涼しい顔で、サンドイッチを口へ運んだ。まるで答えをはぐらかす様に。
もしイエスだったら、僕は相手の男を殺してやりたいと思った。
「私が負けるわけないだろ」
サンドイッチを飲み込むと、ナタリアは口を抑えてククッと笑った。
「可笑しくない」
「可笑しいのはお前の殺気だよ……、妬いてんのかい？ 一丁前に」
図星をつかれて、僕は自分の顔が耳まで赤くなっていくのを感じていた。アルコールのせいにしたくて、グラスに入ったワインを一気に飲み込んだ。
「あーん」
ナタリアはピエロギをフォークに刺すと、無理矢理僕の口元に押し付けて来た。
「僕はもう子供じゃない」
「ああ、そうだった。誕生日おめでとう！切嗣」
大分酒が回っているせいか、ナタリアは普段絶対に見せないような、おどけた表情で迫って来た。僕はナタリアの手からフォークを奪い、黙々と皿の上の料理を食べた。
「Sha la la la la la la la, Happy Birthday, Sweet Sixteen……」
ナタリアはジャズのレコードを好んでコレクトしているのだが、何故かカーステレオにはニール•セダカのテープを入れていた。もう２０年も昔に流行った曲の数々に、どんな思い入れがあるのか、僕はまだ訊いたことが無い。
「Tonight, tonight I’ve waiting for…Because you’re not a baby anymore…You’ve turned into a handsome guy I’ve ever seen…」
よく聞いてみると、ナタリアは歌詞の一部をすり替えていた。そもそもこの「素敵な１６歳」は、幼なじみの少女が美しく成長した姿に、戸惑う青年の気持ちを歌った曲だ。
「……ナタリア、僕は１７歳になったんだけど……」
「あ……そうだったか……？ ひとつ数え間違えていた」
「大分酔いが回ってるみたいだ」
「少し飲み過ぎたかもな……」
ナタリアはグラスをテーブルに置くと、静かに横になった。湿った髪と、バスローブの合わせ目から覗く胸元が、艶っぽい。おそらくその下は全裸に違いない。これを「据え膳」と言わずして何と言うのか。
僕はプレートを片付け、部屋の電気とテレビを消した。
バスローブ一枚を纏って、ベッドに横たわるナタリアが、何故か小さく見えるのが不思議だった。そして今、境界線を越えようとしている自分が、まだ躊躇っていることも。
「……昔、好きだった人が、よく聴いてたんだ……ニールの曲を」
「よくある話だね」
「そうさ…よくある話。つまらないし、くだらない、でも忘れられない過去の話さ」
ナタリアがどんな人生を送ってきたのか、僕は殆ど何も知らない。知らないままでいいと思う。「昔好きだった」男の話など、それこそどうでもいい事だ。
「そのまま寝たら、風邪をひくよ」
ナタリアは動こうとしない。僕は布団を引っ張り出すと、ふわりとナタリアに被せた。
改めて、ベッドの大きさを実感する。二人どころか、大人四人でも寝れそうだ。
ナタリアが小さく見えたのはその所為で。
僕は布団に潜り込むと、無防備に晒されたナタリアの唇に、自分のそれを重ねた。
以前、泥酔してひどく上機嫌だったナタリアが「大人のキスを教えてやる」と言って、半ば無理矢理僕の唇を奪った様に、舌を深く絡め合わせ、唾液を啜り合うキスを返してやった。
バスローブの紐を解き、左右に広げれば、豊かな大きさの乳房が弾むように揺れる。
初めてその柔肌に触れた僕の理性は、いとも容易く瓦解した。
「……どうして」
「……誘ったのは、あんたじゃないか……」
どうして？
それはこっちが訊きたい。
どうして、そんな哀しい顔をするのか と。
「……して、男の子ってのは、直ぐに大きくなる……私の知ってる、役立たずの坊やは、もう何処にも、いない……」
僕が今抱こうとしているのは、一体誰なんだ？
「……僕が知ってるナタリアは、そんな感傷的な台詞を言ったりしない。絶対に」
「それじゃ、今の私は、お前が知らなかった私だよ……」
ナタリアの手が、僕の髪に触れた。子供をなだめる様な、優しい指使いで髪を撫でられる。何度も、何度も繰り返し。
拒まれているのは、分かっていた。
「人は変わる。当たり前のことだよ……それでも、僕が僕であることには変わりない」
ナタリアの目に映されているのは、「役立たずの坊や」だった頃の僕で。
それが無性に、腹立たしかった。
いくら触っても、口付けても、ナタリアは濡れなかった。
僕は自分の唾液で濡らした指を、膣口に挿入し動かしてみたが、愛液が溢れて来る気配は無かった。そうこうしているうちに、ナタリアの手が、屹立したペニスに触れた。
結局僕はナタリアに抱き締められ、赤子さながらに乳房を吸い、ナタリアに導かれるままに、手の中で射精した。この行為がセックスと言えるのか、それは最後まで分からなかった。
「境界」を越えることは叶わず、ただ滲んだだけのラインは、シャツにこびりついた血痕の様に、決して洗い落とせるものでは無く、僕とナタリアの関係をより曖昧にしただけだった。
虚しさに打ち拉がれる僕を、ナタリアは優しく抱きとめてくれた。
それはとても温かくて、哀しかった。
「恋の片道切符」が 頭から 離れない。
Got a one way ticket to the blues……
To be continued